パスティーシュについて
本作はドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のパスティーシュであり、その13年後の物語である。
この手の『パスティーシュ』に対する評価は難しい。
何せ、『妹』の面白さの半分~6割は、元ネタの『兄弟』の方に由来するのだから。
そこで個人的に重要だと思うポイントが、『元ネタへの愛』+『本作独自の面白さ』+『元ネタを別視点で見ることができるようになる』ということだ。
『カラマーゾフの兄弟』のおさらい
『カラマーゾフの兄弟』は、フョードル・カラマーゾフという女狂いの父が、その子供に殺される、『父殺し』の物語だ。
長男のドミートリィは、直情径行型ですぐに手が出る遊び人であり、粗暴でその場の感情を優先する傾向にある人物だ。刹那的な生き方をする男だとも言える。フョードルと同じ女グルーシェニカを愛していた事もあり、フョードルへの憎しみは炎のようだ。
次男のイワンは陰気な学者肌の人物であり、『神がいなければ、全ての行為は許される』と吹聴する無神論者である。彼は父のフョードルの存在を嫌悪し、その憎しみは冷たい氷のよう。
三男のアリョーシャは神に愛されて生まれたような子供で、誰からも愛され、皆の心を和やかにする修道士見習いだ。カラマーゾフ家の良心とも言える存在で、フョードルですら彼の事を愛している。
そして庶子のスメルジャコフ。彼は少年時代から残虐な行為が大好きな男で、動物殺しの常習犯で、邪悪な男だ。イワンの『神がいなければ全ての行為は許される』という言葉を真に受け、彼の信奉者としてフョードルを殺す。
これが、『兄弟』における『カラマーゾフ事件』の真相だ。
つまり実行犯はスメルジャコフであり、思想的犯人はイワン。唆したわけではなくスメルジャコフが勝手にやっただけなのだが、イワンがフョードルを憎んでいたのは隠しようがない事実だった。
本作で提示された『真相』
『妹』では、その13年後、この『事件』の再捜査が行われる。
あの事件以降、罪の意識に苛まれ続ける、30代の捜査官イワン・カラマーゾフ。
彼は警察の殺人課に務めるようになったのだ。
本作では、ドミートリィが既に亡くなっているが、それ以外の人物は(『兄弟』で生きていた人物は)生きている。
ドミートリィは、真犯人の代わりに罪を背負い、死んでいったのだ。
イワンの妻になったカテリーナの存在感が薄すぎるが、全員が登場する。
アリョーシャの妻になったリーザは、相当邪悪な女になっており、貧困から養うようになった女性を隠れてDVしている。
グルーシェニカは、革命運動の闘士となり皇帝暗殺を企んでいる。アリョーシャを慕っていた少年たちも革命運動に参加しており、アリョーシャも参加する事になる。
本作でのイワンはダーク・ヒーロー的な、陰のある主人公だ。
『神がいなければ、全ての事は許される』と言っていた彼だが、それは口だけで、心が蝕まれ、多重人格を抱えるようになっていた。
そのイワンが、過去と向き合い、人格を統合していく成長物語として、本作のイワンは非常に人間味のあるキャラクターだ。
その対極にあるのが、真犯人であるアリョーシャだ。
あの天使の子。あの聖人。
全ての人の心を和ませる、あの善良なアリョーシャが、『妹』では脚フェチの変態であるという第一の爆弾は大した事はないものの、彼の人物像を揺らがせる。
しかし、それだけなら大した事はない。善良一辺倒だった男の隠れた性癖という程度だ。
『妹』で、彼は3人の人物を殺害する。そして、『兄弟』でフョードルを、更にゾシマ長老を殺したのは彼なのだ。
『僕は、罪の意識を全く感じなかったのです。もちろん僕は長老様を愛していました。これ以上ないほどに。自分自身よりももっともっと愛していたのです。だけど僕は悲しくなかった。罪の意識もなかった。むしろ何か嬉しいような、とっても満たされたような気持ちになってきたんです。僕は射精しました』
サイコパスとは、人に好かれる魅力的な人物に映る事が多いという。
本作のアリョーシャは、実にサイコパスらしいサイコパスであり、
『兄弟』で描かれる『神の子』のようなアリョーシャを、サイコパスとして見るのは『言われてみれば納得』という、個人的には腑に落ちる結末だ。
『神はある。だからすべてが許されている』とアリョーシャは話す。
『この世で起こる事は神さまが許されたからこそ起こっているんです。子供が虐待されるのも、良い人が早く死んでしまうのも、聖人だった長老様の遺体が腐ってしまうのも、神さまが許されなかったら起こりません。
僕が長老様や父さんを死なせた後、ますます彼らがいとおしくなったのも、おかしなことではないんです。神さまがそう望まれたからこそ、それは起こったんです。起こったこと、この地上のことを愛せと、イエス様はカナの饗宴で示されたのです。
ラキーチンも、ネリュードフさんを死なせた時も、僕は限りない喜びを感じました。彼らを愛していました。僕はその喜びも愛しました。彼らに対して、これほど愛を感じた瞬間は他にはありません』
神はある。
その前提に立てば、アリョーシャのような異常者が生まれてきたのもまた、神が望んだことだからなのだ。