なんか、ゲームの感想というより、青年の主張みたいな感じになってしまいました(苦笑)。
自分語りウゼーな人は、読まない方がいいかもです。




フリーソフト、無料のゲームなのですが、
これは4000円くらいは出してもいいなぁと思いました。
とても良いゲーム(?)だと思います。
ダウンロードはこちらで。


巧く言えないのですが、重苦しさというか、リアルさを感じました。
泣きゲー寄りというよりは、鬱ゲー寄りというか。泣けるんですけどね。
「死までの過ごし方」というものを、動機づけ・演出・物語の装置ではなく、
真っ正面から捉えているように感じました。
特に、入院した当初は毎日来てくれたクラスメイトが、徐々に来なくなる様子などは
胸にこたえました
(私の母も入院しており、今は2日に1回のペースでお見舞いに行っているのですが、
仕事が本格的に始まったら、今みたいなペースではお見舞いに行かれなくなるでしょう。
そうなった時、母はどう感じるのでしょうか。そんなことを考えてしまいました)。


生とは何なのか? 神とは何なのか? 幸せとは何なのか?


作中では、7階の住人を指して「死刑囚」という表現がありましたが、
7階の住人だけではなく、私たち全ての生命は、生という牢獄に囚われ、必ず死を迎える死刑囚であります。
また同時に、世界のあらゆる事物、事象を知覚できる権利を得た、奇跡でもあります。
ですから、死とは刑期の終了を意味するのかもしれません。
あるいは、事象を知覚できる権利の、期限切れを指すのかもしれません。


たとえば、一生働かずに済み、ずっとゲームばかりやっている人生は幸せなのかどうか。
では、他人のために尽くし、他人の笑顔のみを求めて生きる生き方こそが幸せなのか。


孤独に生きる私たちを見守り、寂しい心を慰めて下さる神を、心の支えとする生き方。
あらゆる生を諦観し、生への執着を絶つことによって、失うことの恐怖を抑える生き方。
あるいは、享楽を貪り、限りある生を精一杯楽しむことにより、死を極度に恐れる生き方。そして、神の代わりに誰かを、心の拠り所とし、依存するメカニズム。それは友達、それは恋人、それは家族。そんな、拠り所を探し求める生き方を、今までの私はしてきましたし、おそらくこれからもこんな生き方をするのかもしれません。依存はしないように、心を鍛えないといけませんね。


集団自殺・心中の気持ちが、僕にはわかるような気がします。
死ぬ直前はどれほど苦しいものなのか。どれほど怖く、どれほど痛いものなのか。


そして、死んだ後はどうなってしまうのか。自分が消えても、世界は回る。
自分の主観世界という、一つの世界は崩壊するけれども、並列世界は変わらずに動く。


だから、人は何かを残そうと思う。
それは、子どもであったり、何か自分を表現した作品であったり。
自分が、確かにこの世にいたということを、忘れられないように。
後世の人が、自分について調べたり、自分の考えに共感してくれたり、自分を知ってくれるなら、それは少しばかりの希望になるから。


誰も見たことのない、天国。
そんなものは、きっとなくて。けれど、あってほしいと、強く願う。
そんな、天国という概念自体が、死への恐怖を表しているような気がします。


自殺。死への恐怖よりも、生の苦痛が上回ってしまった時の、最終手段。
自殺を決意するほどに追い詰められる状況というのは、幸い僕には経験がありません。
死にたいと思ったことは幾度もありますし、高いところからぼーっと
下を見て、ふらふらと飛び降りたくなったことはあります。
でも、それは「覚悟」の上での自殺ではなく、単なる願望に過ぎません。
自殺を決意するというのは、どれほどの生き地獄なのか。僕にはわかりません。
自殺は、自分を想ってくれる人への裏切り行為であり、そういう意味で罪深い行いだと、僕は思います。
ただし、それは生者の、残された者の論理であり、わがままでもあります。
自殺したいという人間を、ただ単純に止める権利は、僕には無いと考えるからです。自殺者の環境を改善し、生き地獄から救えるのなら。あるいは、自殺者が短絡的に死を選ぶなら、引っぱたいてでも止めるべきだとも思いますが。
ただ、例えばいじめを苦にして自殺した、なんて場合、別の学校に引っ越すだとか、そういう処置もあるわけですから、自殺を止め、そういう案を本人に教えてあげることは有効だと思います。金銭苦で自殺を決意した人に、生活保護の申請のしかたなどを、教えてあげることは、大切なことだと思います。
「生きていれば、良いことがある」。そんな、言葉だけの慰めは空しいだけです。
それでも、自分の大切な人が自殺をしようとしているのなら。生者のわがままでも何でも、死なせたくないと考えるのは自然な気持ちです。


上でごちゃごちゃ書いているのは、何てことはない私の自己満足・妄言なわけですが、
「ナルキッソス2」は、こういったことをつらつらと考えさせられる、
そんなソフトでありましたということで。
多分、人それぞれこのゲームをプレイして、思うことは違うのでしょう。
それは、ダイレクトにプレイヤーの死生観・人生観が反映されるのではないかと思います。


まーなんだ。これはもう完全にきれい事なんだけど、「死刑囚」同士、仲良くしようよと。
別の宗教(心の支えの違い)、別の民族(肌・言語などの違い)、別の国家。
だからなに? と。みんな、「死刑囚」。死を待つ身なのに、争いあってそこで仮に勝利を収めても、空しいだけじゃない。
半ば本気で僕はそう思っていますが、これは確かにきれい事でもあるのです。
ゴキブリや、蚊だって、死を待つ死刑囚の仲間ですし、今日食べた鶏肉、鶏だって同じはずなのに、殺生をしているわけで。
ここら辺になってくると完全に論理矛盾が起こるので、この辺にしておきます。僕は聖人君子ではなく、自分の部屋で蜘蛛が歩いているのをつぶしたりとかしていますからね。
今さらっと自分の部屋と書きましたが、そもそも自分の部屋という表現自体、おかしな話で。そんなのは人間側の勝手な理屈ですからね。意識せずに使ってしまいました。


何というか、とにかく考えさせられるゲームでした。
以前、ドキュメンタリー番組で、身体に障害を抱える老夫婦が、
最後の貯金40万円を降ろして、死に場所を探すために旅行をし、
一月以上の旅の果てに、お金も底を尽き、二人で心中をしたというのを
見たことがあります。
そんなことも、思い出しました。



話は変わって。病院の『7F』というと、ブッツァーティ作の「7階」という作品を思い出します。
あれは逆で、最上階の7階は安全で、下に行くほど危篤になるというお話でした。
段々段々下に下げられていく様子が怖くてたまらない、ホラーの名作だと思います。


最後に、「ナルキ2」の揚げ足をとりますと、何箇所かある「ら」抜き言葉が気になりました。
個人的には、キャラクターの台詞以外は、何らかの狙いがある場合を除き、「ら」抜き言葉は避けた方が良いと思います。
もちろん、そんなことで減点したりはしませんが。