2011年07月

智代アフターネタバレ感想

65点。
非常に評価のしにくいゲームでした。


まず、このゲームはCLANNADというゲームのヒロイン、智代との後日談(アフター)という位置づけになっています。
これをどう捉えるかが、第一のポイントですね。


このゲームの内容は大きく前半と後半に分かれます。
全体の7~8割 を占める前半は、『朋也・智代・鷹文(智代の弟)・可南子(鷹文の彼女)・とも(捨て子)』の五人が織り成す、ドタバタ青春モノです。
そして、後半の2~3割が、『記憶喪失になった朋也と、それを支える智代の物語』となっています。

 
まず前半ですが・・・・・・。あまり面白くは、なかったですね。
中でも『学校を建てる』件は、最悪で、終始苛々しながら読んでいました。


流れはこうです。
ともを捨てたお母さんの居場所を、朋也たちが見つける。
朋也・智代・可南子の三人は母のいる村に行き、事情を聞く。
その事情とは『母の余命は短い』こと。『母のいる村には学校がなく、同年代の子供もいないこと』。
ここで朋也は、『ならば学校を作ろう』と考えるのです。
そして、『ともの考えも、母の考えも聞かずに』、勝手に学校を作り始め、その事業に村人も巻き込み、ともの帰郷を既成事実化します。
それに反対する智代の意見を、「わがまま」と切って捨て、ならばと帰ろうとする智代を、財布を奪ってまで帰らせない。
朋也によると、「母と子は一緒にいるべき」なんだそうです。そして、「俺と智代は一緒に帰る」んだそうです。


何なんでしょうか、これは。
朋也のエゴを、無理やり他人に押し付けているようにしか見えません。
ともは最終的に、母と暮らしたいという希望を口にします。なので結果オーライではあります。
ですが、朋也が暴走している段階でともはそのことを口に出していません。
それどころか、母と一緒に暮らしたいという素振りすら、描写されていません。
『余命いくばくもない母親と過ごすこと』
『通いなれた幼稚園から離れて、同年代の友だちが一人もいない場所に引っ越すこと』。
この二点について、朋也は全く想いを致していないのでしょうか。
特に二点目については、誰からも全くフォローがないですが、本当にライターは子供のことを考えて書いたのでしょうか? 
母が亡くなったら、ともはどうするのでしょう?
誰が面倒を見るのでしょう。もう、智代たちはいないのです。村全体で面倒を見るのですか?
同年代の子供が誰一人いないこの村で、ともは青春時代を過ごすのですか?
人ひとりの人生を変えたいと本気で思うなら、相手の人生を真剣に考えてあげるべきでしょう。
それを、『母と子は一緒に過ごすべき』などという浅薄な理想主義で片付け暴走する主人公を肯定する物語を、
僕は肯定することはできません。


シナリオが破綻しているのも確かですが、それよりもライターが下手なだけだと思います。
ともが、「母と暮らしたい!」と訴えるシーン、訴えはしなくても強くそう感じていることがわかる描写が一つ、二つあれば、「ともの気持ちに絆されて、空回り気味に奮闘する、頑張り屋さんの青年」と見ることもできました。


他にも、不良との喧嘩で成長を実感というワケのわからない展開も謎です。
適材適所という言葉があるように、何でも自分でやるのが偉い、ということではないと思います。
智代を守るために、智代を心配させるというのは本末転倒です。
読んでいて、馬鹿馬鹿しさしか感じませんでした。
一応ともが人質になったら~という懸念はあったのですが、可南子がめちゃくちゃ強いとわかった後なら、
可南子と智代が別行動することも可能で、朋也が出る幕ではないです。


そんな不快な前半シナリオとは違い、
後半は、少なくとも読んで苛々はしませんでした。
純情少年になった中学バージョンの朋也は可愛かったですし、優しい物語だと思います。
ただ、『記憶喪失になった朋也へ、CLANNAD本編のおさらい』をしているシーンが中心なので、
あぁそんなこともあったなぁと思う反面、「これ、単なる総集編じゃん」とも思いました。


で、ラストは結局朋也が助からなかったエンドと共に、「人生の宝物を探しに行こう!」。
まぁ、いいのです。
人生の宝物というものが何を指しているかはわかりますし、僕はこの後半は別に憂鬱な物語だとは思いませんでした。
語り手が智代なら凄く憂鬱な物語なのですが、純情ボーイ朋也視点なので、全然鬱らなかったです。
そして、どんなに不幸な境遇にあっても、その中には確かに目に見えない宝物が転がっていて。
それは朋也の「愛している」という言葉だったり、朋也のことを待ってくれていた直之の気持ちだったり。
更に言えば、鷹文、可南子、ともと過ごした日々であったり、CLANNAD本編で春原とバカをやっていた日々であったりするのでしょう。


ただ、この「人生の宝物を探しに行こう!」というメッセージは、明言こそされていないとはいえ、CLANNAD本編で既に伝えられていたメッセージだと思うのです。
何も渚トゥルールートを焼き直して死者の性別を変えたような、後半部分を付け足さなくてもそれはもう伝わっていると思うのです。
そんなわけで、僕はこの後半は否定はしないものの、何故書かれたのかが、これまたよくわかりません。
僕は全く鬱になりませんでしたが、多くの人が鬱になるであろうことは予想がつくわけで、
CLANNAD本編でのハッピーエンドを取り消してまで、書くべき内容なのかと聞かれると判断に困るゲームでした。

EDEN クリアしました(重ネタバレあり)

この作品は、批評空間で「短い」と評されている。プレイ時間だけを考えればそうだろう。
だが、「物語として本当に無駄がなく、引き締まった作品だったのか?」と問い直せば、
僕は「否」と応えたい。
この作品は、「長かった」。もっと短くして、然るべきだったのに。


不満は主に後半に集中する。


「世界崩壊モノ」と、「ヒロイン衰弱モノ」。
この作品は一体どちらを描きたかったのか?といえば、当然前者だろうと思う。


ならば何故、後者「衰弱」ネタを入れたのか、そしてシオン一人を殺したのかが僕にはわからない。
世界の終わりを一人迎えるというテーマをライターが描きたかったわけではない。
それは、今まで散々しつこく「ヒロインの衰弱」を描いてきたライターが、ヒロインの死後あっさりと筆を置いていることでもわかる。


これはもちろん僕の好みだが、終わりゆく世界を二人で過ごしていくという、
無限の拡がりを持った形で物語を締めくくって欲しかった。

(ある作品の感想で、「どうして終わりまで書かないのか!」と文句をつけたことがあるので、ある意味ダブルスタンダードではあるのだが)。
この作品に関しては、終わりを書かないことで、二人のこれからをプレイヤーが想像できるような終わり方をしても、良かったと思うのだ。


ベターな幕の引き方は幾つもあったはずだ。

真夜とのお別れシーンで、筆を置いても良かった。
丘の上、二人のキスシーンで、筆を置いても良かった。
最後の宇宙船を二人見送るシーンで、筆を置いても良かった。
ヒロインが死ぬところまで書こう、というある種の真面目さ、律儀さがマイナスに作用しているように思えてならない。


敢えて最後まで書くのなら書くで、世界最後の日を二人で過ごすエンディングにしても良い。これはこれでロマンチックなのだから。
また、どうしてもヒロインを殺したいのなら、ラストひとりぼっちの世界で主人公が段々狂気にとりつかれていくという、救いのないエンドはどうだろうか。
何だか沢山の人からお叱りを受けそうな気がするが、とことんやるならこれくらいやっても良いだろう。


世界崩壊を一人で~というのがお望みなら、ここは敢えて選択肢を導入し、
主人公がシオンの願いを入れて、真夜についていく別エンディングを用意しても良かったのではないか。
これはこれで一つのドラマだし、僕はこの選択もまた有りだと思っている。
遠く離れ離れになり、もう二度と会えないと知りながら、お互いを想い続けるというのもなかなかドラマチックなものである。
せっかくラジオというアイテムもあり、真夜というジャーナリストもいたのだ。
真夜の設定を雑誌記者ではなく、ニュースなどに出てくるインタビュアーとして設定し、ラジオに登場しても良かったのではないか。


……ここまでやると荒唐無稽かもしれないけど、僕はエリカのラジオに関してはもっと活かして欲しかったなと思う。
終末の日、ラジオを抱えながら草原でキスをする二人の耳に、遠い宇宙の彼方から、
真夜の、そしてラヴィの声が聞こえるなんてのも悪くないと思う。
クロスチャンネルっぽい気もするが、パクリと叩かれるほどのレベルでもない(たぶん)。


と、ここまでひたすら終盤の展開について不満をぶちまけたのだが、根底にあるのは
『どうしてシオンだけを殺したの?』という疑問である。
「二人だけの世界」なら、「二人」最後まで一緒の方が、物語が終わった後も(終末までは)一緒だろうと信じられるようなエンディングの方が、
よほどロマンチックだと思うからだ。


第二の疑問。これはより小さな疑問だ。
シオンと亮の二人の生活は本当に『ラブストーリー』だったのだろうか。
僕は、微妙なラインだと思っている。
亮が達観しすぎていて、シオンは『守るべき存在』、『恋人』というよりは『娘』のように僕には思えた。
丘でのキス以降、ほんの少しシオンが『恋人』らしく見えたのは確かだが、
それまではどう考えても娘にしか思えなかった。


さて、最後に。気に入ったキャラは実はエリカである。
僕の中ではシオンは、主人公とエリカの娘的ポジションでしかないのである。
シオンはかわいい。それは認める。けど、「世界で最後のロマンチック・ラブ」の相手としては、あまり相応しく感じなかったのである。
(名前ド忘れした)上司や、ラヴィ、真夜も含めてサブキャラの生き様は実に魅力的である。
主人公は正直ピンと来なかったが、別にダメな主人公ではないし、シオンも上ではあぁ言っているが、悪くない。
キャラクターは全体的にポイントが高かった。


また、音楽の美しさについても触れておきたい。この物語を情感豊かに彩ったのは間違いなくBGMである。
OPムービーともども、十二分に役割を果たしたと言える。


それだけに、シナリオが残念なのである。
「はるのあしおと」、「ef」で鏡遊氏の作品には触れている。
細かくどのヒロインのシナリオを担当しているのかは知らないし、実はefはまだfirst taleしかプレイしていないのだけど、好印象を持っているライターさんである。
今回の「EDEN」は僕にとっていささか残念ではあったが、壊滅的にダメだったか?と聞かれたら無論そんなことはない。
その意味で、点数に対して、批判が厳しすぎると思われる向きもあるだろう。
要するに、それだけ期待していたのである。


余談だが、僕は「世界崩壊モノ」というジャンルが大好きだ。


ネビル・シュートの「渚にて」。これが僕の世界崩壊モノのベスト作品。
「エンド・オブ・ザ・ワールド」という名前で映画化もされているので、(何故か評判が悪いけど、僕は大好きである)是非そちらでもいいから観てほしい。
号泣間違いなしの名作である(と思うのだが評判は悪いw)。


続いて、ラリー・ニーブンの「悪魔のハンマー」を挙げたい。
これは世界崩壊後、原子力発電所を怖そうとする暴徒どもから、人類の叡智の集大成である原子力発電所を守ろうという作品である。
これに対し、世界崩壊後、善と悪の陣営が闘うスティーブン・キングの「ザ・スタンド」では、
原子力は悪の側の兵器であり、主人公は原発を止めようとするストーリーである。
震災以降、原発問題は改めてクローズアップされている。
この二作品を読んで、自分の理想はどちらの陣営にあるのかを考えるのも面白い。
僕はどちらかと言えば反原発の立場だが、そういう立場を超えてこの二作品は楽しめると思う。


ロベール・メルルの「マレヴィル」には滅びの美学とも言うべき、死の静謐さが描かれていて、これも大好きな作品だ。
アニメなら「最終兵器彼女」だろうか。「世界で最後の」ラブストーリーと銘打つなら
僕はこの作品が一番好きかもしれない。
このように僕はこのジャンルの作品群が大好きなのである。


と、これらの名作たちに比べて、EDENは物足りない。非常に物足りない。
設定を見ただけで「おっ、これはもう僕のストライクゾーンド真ん中だな!」と思ったし、OPムービーを見てそれは確信に変わったのだが……。残念である。

映画版 きみの友だち 見ました

評価はD+。


 小説で気に入った(S評価)「きみの友だち」の映画版を見たんだけど、酷い出来でした。
酷いというか、完全に作戦ミスだと思います。
作戦ミスだと感じたのは主に2点。


まず1点目から行きます。
「きみの友だち」は10編の連作短編集なんですね。
そのうち5編が、恵美と由香を中心とした女性サイドのお話。
4編が恵美の弟のブンとモトくんを中心とした男性サイドのお話で、
1編は後日談的な、大人になった恵美のお話。


で、10編を全部、2時間の映画でやろうというのは無茶なんですよ。
 なので必然的に10編のうち幾つかを切り捨てることになったわけです。
この作戦自体は間違いではないです。
問題はどの短編を切り捨てるかなのですが、切り捨てた短編のセンスが悪すぎました。


異論はあるかと思いますが、「きみの友だち」は恵美と由香&その周囲を描いた
女性サイドの短編の方が出来が良いんですね。
映画のポスターなどを見ても、恵美と由香推しなのは間違いないと思います。


であれば、恵美と由香だけに焦点を絞り、丁寧に描けば良かったと思うのです。
ところが、何故か始まるや否や、映画は後日談からスタートします。
この後日談が、一番どうでもいい短編なのに、一番長い。
男性に見せる恵美のツンデレっぷりは可愛いですけど、この作品は恋愛映画ではなく、「友情映画」だと思うので、優先するところはそこではないと思うのです。
で、ようやく過去編が始まったな と思ったら、頻繁に現代(後日談)に飛ぶし、
挙句の果てにブンちゃんの短編が2つも入れられているのです。


おかげで恵美と由香の短編は3つのみ。それも、『出会い』、『1つ短編』、『別れ』。
由香が亡くなるシーンで泣けと言われても、これじゃあ泣けないですよ。
5つの短編を通して、恵美と由香の絆をこれでもかと見せつけられた上で、由香が亡くなるから泣けるわけで。
出会って、一つ仲良いシーンがあって、すぐ別れちゃって、これでどうして泣けます?


こういうことをするから、『みんな、が嫌い』についての言及もできないし、何がしたいのか本当に中途半端な映画になってしまいました。
 

もう一つのミスは、極力モノローグを排したこと。
小説版では、「台詞」と「台詞」の間に、丁寧な心理描写があって、キャラクターの心の声が聞こえてくる。
そうやって読んでいると、どんどん感情移入が出来る仕組みになっています。


この映画版では、映像だけで何とかしようとしています。
心理描写が排されている(音声という形では表現されていない)のです。
映像だけできちんと伝わるなら、上品だと思うし、良いとは思います。
ただ、これは僕と相方の感受性の不足なのかもしれませんが、全然伝わっていません。
これは好みの問題かとは思いますが、小説版が大好きだった僕には、何度も泣きそうになった僕には、
映画版は全く楽しめませんでした。


良かった点はほとんどないんですけど、主演の二人はとても可愛かったです。
特に恵美はイメージぴったりでしたね。それくらいです、ほんとに。

鬼哭街 ネタバレ感想

80点。

復讐劇です。
5人の組織幹部に殺され、その魂を五等分された主人公タオローの、妹ルイリー。
タオローは、この5人へ復讐を遂げ、ルイリーの魂を回収し、統合していくことでルイリーを蘇らせようと誓う。


・・・・・・というストーリーですね。
こう書いてみるとなかなか、バカでしょ。
でも、実際に読んでみるとバカっぽく感じないんですよ。
変に茶化したりせず、真正面から大真面目にこの物語に作家が取り組んでいるので、
読む方も真面目に読んでしまうんですね。


気に入ったのは、高速道路の逆車線から、走行中の車の屋根を飛び移って敵を追うシーン。
ハリウッド映画でもよくあるシーンなので、恐らくライターはそれを意識していると思うのですが、
映画よりも凄いのは、『車が空中を飛んでいること』と、『車がプログラム制御されていて、敵が操っていること』でしょうか。
それでも華麗に飛び移りながら、敵を追いかけるって、主人公が凄すぎて笑うしかなかったです。
冷笑ではなく、ここまでやられたらもう惚れるしかないなと。
演出に頼らず、これほど卓越したアクション描写を描ける人は、僕はエロゲではこの人しか知りません
(元々、バトルものがあまり好きではないため、本数をこなしていないのは確かですが。
「Fate」は演出の力が強いですし、「あやかしびと」はあまり好きではなかったので。
「モエかん」は、バトルという意味では1ランク落ちますし、「マージ」とかまで出す必要はないと思うので)。


作品構造について軽く述べるなら、
『五人の中ボスが、アイテムを分割して持っている。五つ全部集めれば、効果を発揮する』というものが基本コンセプトで、
これはRPGなどでもよく見られるタイプの構造になっています。
もっと猟奇的な連想をすれば、『バラバラ殺人で、殺人犯がそれぞれのパーツを隠し持つ』というあれですね。
僕は読んでいないのですが、『どろろ』や『摩陀羅』という作品には、『中ボスを倒すことで、失われた身体を取り戻す』というギミックがあるらしい(間違ってたらすみません。又聞きレベルですので)ので、それらがモチーフなのかもしれません。


また、この物語をラスボスのリュウ・ホージュン視点から見ると、
「俺の大好きな彼女が、ブラコン野郎だった」という悲劇失恋モノになるのですね。
だからといってこの所業はないとは思いますが、悲憤に打ちひしがれた気持ちはわからないではないです。
恋は人を狂わせるということで、クールな作風でありながら、根底に人間の熱い感情が流れているところが、
僕が虚淵作品を好きな理由です。
「Phantom」では、女同士のクールで熱い恋のバトル(アインVSキャル)が展開されましたが、
今回は男同士、タオローVSホージュンという構図なわけです。


そして、このルイリー。
いかにも『魔性の女』というか、得体の知れなさ加減が良いですね。
男を不幸にする女というか、こういう女に引っかかると、男性は振り回されてひどい目に遭いますよ。
ラストのツェ(ドクター)との会話などは、彼女の底知れなさが出ていますね。
どういうコネなんでしょう。
レイプされたのも、魂を五等分されたのも、まさかとは思いますが妹の差し金なんでしょうか?
それはない、とは言い切れないところが怖いです。確信しているわけでもないですけど。


ただしルイリーには不満もあります。

というのは僕、ルイリーに『狂おしいほどに惹かれ』ることができなかったんです。
これは、物語のほとんどがタオロー視点であり、タオローは妹の正体(妹がどういう女なのか)にまるで気づいていない故の弊害なのですが。
もっと『生前の』ルイリーの小悪魔ぶり、魔性の女ぶりを回想シーンでも見せてほしかったなと。
ホージュン視点でのルイリーの回想シーンが絶対的に不足していると感じました。
そのせいか、ルイリーには妖しげな『妹』としか最後まで見られなかったのが残念です。
タオローに同化するという意味では良いのでしょうが、『魂は変質したのか否か』という問いを残すために効果的だったかと聞かれると、あまり効果がなかった気がしますし、僕はむしろホージュンに同化したかった。
一人の『女』としてのルイリーを、もっと見せてほしかったです。


ここまで書けばわかると思いますが、後半は、タオローよりもホージュンの方を応援しながら読んでいました。
タオローなんて所詮は鈍感モテモテ主人公ですよ。リア充爆発しろ(冗談です:笑)。

『いくら好きな女が振り向いてくれないから』とはいえ、『レイプ』はやりすぎです。
でも、ルイリーそっくりのガイノイドに語りかけているシーンなどを見ると、解るなぁ、と。
お前さんホント、つらい立場だなぁと思います。


ルイリーが悪い、と言っている方もいましたけど、僕はそうは思いません。
「他人も自分も全てを犠牲にして、愛に生きる」ルイリーを、僕は否定できません。
犠牲にされた者からすれば、恨み言を言いたくなるとは思いますが。
「ルイリーが兄に告白すれば良かった」などと言っている方もいましたが、さすがにそれは無理です。
そもそも、この物語の舞台は中国。日本よりも更に近親婚には厳しかった過去を持つ国です。
更に言えば、これ、(誰も言ってないけど)実妹でしょ? 義妹なんて単語、一言も出てきませんし。
とどめに、兄貴は自分のことを妹としてしか見ていない。無理ですよ。どう考えても、無理です。


欠点はというと、一番大きな不満はルビです。
人名以外の漢字にルビがないんです。
必殺技にすらないんですよ。はっきり言って読めませんて。
他にも(知っている人は知っているでしょうけど)、多々ありまして
たとえば内家拳と外家拳。
『ないかけん』はいいとして、後ろの単語、僕はずっと「げかけん」て読んでました。「ないか」だけに「げか」(苦笑)。
『がいかけん』が正解のようですが、こんなのにもルビはないんですね。
僕が自発的にネットで調べようと思わなかったらずっと、「げかけん」のままでした。
拳法を習っていた人や、詳しい人は別として、知らない人の方が多いと思うんですけどね・・・・・・。
後、中国の地名にもルビを振ってほしいなぁと。
たとえば上海浦東は「シャンハイ」は別になくてもいいですけど、個人的には「ほとう」はできれば欲しいレベル。
つくりを見れば「捕」「補」と同じなのですから、読めなくはないですが、日本語ではあまりこの「浦」という字を「ホ」とは読まないと思うので。


システムも、9年前のゲームだということを考慮に入れてもなお、使いにくいです。
音声がないのは良いとして、バックログを選ぶと音楽が消えるのはちょっと。


ただそういった不満点があってもなお、80点をつけようと思わせる読み物でした。

ナルキッソス3 ネタバレ感想④「メサイア」読了

88点。
まいりました。 

まだ姫子おまけシナリオをプレイしていませんが、ここまでの4ルート内での比較では、圧倒的大差で「メサイア」を推します。

(メサイア>>>>>>>死神の花嫁>>小さなイリス>>>>>>>>>>>>シーラスの高さへ)


早狩氏の物語は、毎回必ずスロースターターという悪癖がありまして。
終盤一気に面白くなるのですが、序盤はたいてい退屈なんですね。
今回の「メサイア」も3章まではとても退屈でした。
ターニングポイントは4章、久也視点に切り替わってから。ここから一気に面白くなりました。 

4章に出てくる、
「たったいま、この瞬間に、自分は健康で余命が数十年残っていると信じきっていながら、まったく無自覚で致命的な病を抱えている奴が、果たしてどれくらい・・・・・・」

という文章に深く共感してからは、スルスルと文章が胸に染み込んでいきました。


繰り返し語られる、「余命が三ヶ月だろうと、三年だろうと、三十年だろうと、そこに一体何の違いがあるのだろう」
「どうせ僕らは最後には死んでしまうのに」という変えようのない真実を、
にも関わらず、多くの人が目を背けているであろう死生観を描いたこの短編は、
一番僕の死生観に近かったです。


ヘルパーさんとの和解や、終盤のツーリング、ラストの家族との和解まで
本当に流れるように美しくシナリオを描ききったなと。
改めて、早狩氏は一流のストーリーテラーだなと感じました。

「ただ・・・・・・おれは、おれ自身が理由(の死因で)で死にたかったよ」


注:()内はfeeが補足


という発言にも強く肯けましたし、


ヘルパーさんの
「だれもが、周囲に迷惑をかけ、罪を犯し、そして生きています・・・・・・それで良いのです」

という台詞には、僕自身も大いに励まされた思いがしています。


改めて、『ナルキッソス』とはこんなに胸の痛くなる、真摯なメッセージの詰まった物語だったんだよなぁ、と感じた一方で、
そんな「プレイした後、人生についていろいろと考えたくなるような物語」を体感できたのが
この『メサイア』1編だけだったのは、残念だなと感じました。


しかし、『あとがき』で、「死神の花嫁」と「シーラスの高さへ」が若者的死生観?(ライターが若者)
「メサイア」と「小さなイリス」が中年的死生観?(ライターが中年)
と書かれていましたが、僕、中年的ですかね。まだピチピチの(?)二十代なんですけど。

・・・・・・うーむ。



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