著者はアイン・ランド。評価はS

今年読んだ数ある本の中で、間違いなくベスト3には入る作品だ。


この本には強烈なメッセージ性が込められているんだけど、それに賛成でも反対でも(僕はどちらの立場でもない)、この本を名作と認める障害にはならないと思う。これは「思想書」であり、「ハーレクイン」であり、「純文学」であり、「読み物」であるから。


まずは登場人物を紹介する。そして、同時に思想についても軽く紹介しよう。


主人公のハワード・ロークは、わが道をゆく天才だ。世間の評判、他人からの評価など全く気にせず、ひたすら自分の好きなこと、自分が価値を置くことに向けて行動する。たいていは非とされる、この「絶対自分中心主義」を是としたことが本作の特徴であり、「思想」だろう。しかしこの思想は当然、危険だと感じる。自分の考え方、感じ方が正しいとは限らないからだ。ハワード・ロークは天才で、間違わないから、この絶対自分中心主義が「結果として良く見える」だけで、こんなの普通の人が社会でやったら鼻持ちならないだけの傲慢な奴で終わりだろう。世捨て人になるなら悪くはないが。まぁ、それはそれとしてロークのような生き方ができればいいなぁとは思う。一つの理想としてね。


「絶対自分中心主義」は、他人にはまるで干渉しない。なぜなら、他人の評判を全く気にしないから、干渉する理由がないのだ。自分は自分、他人は他人であって、自分がしたいように他人を動かすようなわがままは、この絶対自分中心主義では認めていないことに注目したい。


僕は「水源」という小説が面白いと感じるし、面白い作品を強く人に勧めたい気持ちもわかる。「この本を読んだ人と語り合ってみたい」という気持ちは非常によくわかるし、僕もそう思う。ただ、そう思った時点で、その人はハワード・ロークであることを放棄している。

「僕がいいと思ったから、僕の中で『水源』は面白かった」というレベルにとどめておくのがハワード・ローク式だろう。僕はロークを理想としつつも絶対に実践できないことを理解しているので構わないのだが、真にロークを目指すつもりがあるなら、某レビューにもあるように「この本を読んで魂が震えない奴は終わってます」などと書かずに、黙って価値をかみ締めるがいい。まして、間違っても「この本の信者を増やしたい!」なんて言ってはならない。
ハワード・ロークになりたいと思わない人は、いいのだ。ハワード・ロークになれもしないのに、なりたがる連中、特に「絶対自分中心主義」を自分の都合が良いように誤解して実践しようとする連中はヤバい。ハワード・ロークは神話の人物でしかない。仮にハワード・ロークになれる人がいたとしても1万人に1人だろう。「アメリカ人が認める20世紀の偉大な小説No2」にこの本が選ばれているにも関わらず、圧倒的な支持率でブッシュ政権を支持し、イラク爆撃に踏み切った事例を見ても、愛読者≠ハワード・ロークになれる人、ではないことがわかるだろう。
逆に僕は、あまり多くの人に、とりわけその資質を持たない人に「水源」を読んでほしくないと思う。そんな人が増え続け、「社会主義批判」とか、「弱者切捨て経済」に安易に賛同するような事態に陥りかねない作品。率直に言って有害図書にしたほうがいいと思うよ、この本は。


ロークに対比される第一の男は、ピーター・キーティング。哀れなほどの凡人だが、一番理解しやすいキャラだろう。キーティングはロークのアイディアをパクった上で、大衆にひたすら迎合し、名声を得る。しかし自分というものを持たず、中身は空っぽな人物に過ぎない。私自身は彼ほど露骨でもなければ悪趣味でもないつもりだが、彼を評した「偉大になりたかったのではなく、偉大だと思われたかった」というセンテンスは胸に突き刺さるものを感じる。俺は、やはりキーティングなのか。昔捨てた女に未練たっぷりに縋る彼の姿を含め、凡庸であることの悲しさ、悲哀が見て取れる。
最初はキーティングのウザさが目に付いたのだが、終盤になってくるとかわいそうになってくる。この「かわいそう」という感情はロークに言わせると一番「残酷」なものだそうだが……どうだろう。確かにロークやキーティングほどにプライドが高いなら、残酷と感じるのかもしれない。
ここまで低劣かどうかはおいておくが、ほとんどの読者にとって一番近いのはこのキーティングだろう。彼の正体が暴露され、罵倒されていくのを我が身に置き換え、反省するのはこの本の楽しみ方の一つだと思う。私は、反省することしきりだった(しかし、だからといってなかなか直らないものだが)。


ロークの絶対個人主義に真っ向から牙を剥くのが「絶対利他主義」を僭称するエルスワース・トゥーイーだろう。彼はメディアの力を悪用して、無価値なものをさも価値があるように書き立てる文才を持っている。それに騙されてその商品をありがたがる、愚かな大衆を操る支配者だ。正直、なんでそんなことをしたがるのか全くわからないが、この小説中随一のウザキャラだろう。


ゲイル・ワイナンドの評価はしにくい。ロークの絶対個人主義の反対で自分を殺して商売をしてきた男だが、他人の高潔さを殺して回るエピソードはそれにそぐわない気がするのだ。その辺は読み込み不足だろうか。


ヒロインのドミニク・フランコンは、最も理解できないキャラクターだ。それだけではなく、ヒロインにも関わらずやることが相当えげつない。いくら愚鈍でウザったいキーティングとはいえ、彼を弄ぶ権利が彼女にあったとは到底思えないのだが。とはいえ、ハーレクインとして読むなら彼女に重点を置かずにはおれないのが苦しいところ。
…好きな人にレイプされて支配されたい、クールビューティーにして実はマゾ気質。ってことはわかるけどさぁ。余談だけど、エロシーンはなかなかにエロい。女性作家の描く肌の感覚は本当に繊細でゾクリとする。距離感の描き方などにも見るべきところが多いように思う。


最後に。物語としても良くできていると思うのだが、ラストの爆破が「無罪」になるのはさすがに荒唐無稽にすぎると感じるし、弱者を切り捨てる公共住宅廃止等(全員に門戸を開け放てば、単なる早い物勝ちになり、低所得者に行き渡らない)、思想としては受け入れがたいものも感じた。
世界の富は、世界中の人が食っていけるだけあるのだから、それを平等に分け合えれば食っていけるだろう。そんな夢物語を信じるわけではないが、 「せっせと働く中産階級が、役立たずの乞食と変わらない待遇なのはおかしい」という下を切る方策ではなく、「せっせと働く中産階級が、社交に明け暮れる上流階級よりも貧しいのはおかしい」と、上を均す方がよほど健全だと思うのだが。