さて、そろそろ「まじこい」を再読する時期が来たようだ(主に、プライベートの都合です)

既に「前口上」にあたる「0」の記事を書き、
「1(サブヒロイン編)」の記事を書いた後でこう書くのもなんだが、
改めて、書き落とした事が多いので改めて書く。


まず、大前提として今回の「まじこい」プレイは再読である。
初読時に抱いた素直な感想はこれであり、

https://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=11236&uid=fee

ハッキリ言って、評価は高いものではない。

それから数年が経った今、感想が大きく変わる事は恐らくはない。
が、この感想を改めて抱くならあまりやる意味がないのも事実である。


これから再読するにあたって、あくまでも『初読時の記憶』を基に書く。

「まじこい」とは『コミュニティの活躍(お祭り)と、
その終焉(祭りの終わり)』を描いた作品だった。と記憶している。


ここで言うところの『お祭り』とは通常、『楽しい学園生活(風間ファミリー)』を差すわけであるが、
『まじこい』ではこの部分を補強するため、『超人バトル』を用いるルートが非常に多い。
超人バトル=お祭り=楽しい学園生活(風間ファミリー)の象徴、とイコールで結んでしまっても良いほどだ。

特に顕著なのが
・まゆっち
・百代
・クリス
の3ルートである。

一方で
『祭りの終わり』を感じさせるのが
・京
・一子
の2ルート。

最終ルートのリュウゼツランは、ゲーム全体を通してのテーマである風間ファミリーの抱える問題点、
お祭り、更に祭りの終わりを描いた、作品テーマの集大成となるグランドルートであるが
そうかと言ってこのルートが最も面白いルートか?と聞かれると疑問が残る。


1つのルートで、作品の持つ数々の側面(そして欠点までも)を全て味わえる贅沢なルートであり、
作品テーマを手軽にうまくまとめてくれたルートでもあるので、むしろ今回のプレイでは最初にやってサクッとテーマを再確認し、それに基づいて各ヒロインルートが持つ機能性について個別に見て行った方が良いのではないだろうか? とすら思っている。


まぁ、どうするかはまだ決めていないが、初読ではないため、そういう『ズル・裏技』が許される立場ではあるのかな、とは思っている。


もう1つ、初読時とは異なる条件がある。
それは、『なるべく、作品の良いところを見るよう努力しよう』ということだ。


僕の「まじこい」の評価が決して高くない事は、
前述の批評空間へ投稿した感想を見ていただければ明らかだと思う。
『お祭り』の部分の描き方が、ことごとく肌に合わなかった。


そのため、極論すれば
『成人式でヤンチャをやって、当人は楽しいけど、他人から見たら白けきる』の『白けきった他人』の位置から抜け出すことができなかったのだ。

これは、作品との相性も大きいだろうし、『まじこい』という作品のクオリティにも問題があるように思う。
しかし、今回は『なるべく意識して、成人式でヤンチャをやる当人』の気分になってプレイしてみたい、と思っている。なれるかは別として、意識はしてみたい。


結局のところ、まじこいとは『ヤンキーの武勇伝』のような作品である。

ヤンキーが『あの頃はヤンチャしたよなぁ』と言って、ろくでもない事を誇っていて、それを聞く俺としては「あっそ」としか思わないのだが、話している当人たちはとても楽しそう。
そんな感覚なのである。
ここはヤンキーになりきらなければ楽しめないのである。
大体、ヤンキーになりきれないからこそ、つまらない人生を歩んでいるのではないか?


楽しそうにろくでもない事をして、楽しそうにそれを振り返れるヤンキーは、得てして人生を謳歌しているように映るし、(過度の迷惑をかけなければというエクスキューズはつくが)それで何の問題もないのである。
モラリストぶってヤンキーに批判の目を向ける当人の僕が、どれだけ立派な人生を送れているというのか。


と、自己批判するのはここまでにしておこう。
「素」の僕が、まじこいを「素」の状態で読めば、恐らく批判的になるだろう。
だからこそ「なるべく、素の自分を捨て、良いところを見よう」という試みだ。
とはいえ、完全に素の自分を捨ててしまう事は不可能だし、ダメなところを無理やり褒めるのはいかにも意味がない。
そもそも『良いところを見ようと努力せずとも、自然と良さが伝わってくる』のが良作の条件である。
良作ではないのに、良作でした! と無理やり書くのはこれも本意ではない。


この辺のバランスが難しいなと感じつつ、そろそろ本腰を入れてプレイを始めようと思うのであった。


チラ裏乙でした