☆前置き

正直に言って、あまり上品なやり方ではないのですが、ちょっとどうしても言いたいので書きます。

シミルボンに挙げられた このレビューについて
ttps://shimirubon.jp/reviews/1692778 。

率直に言って、「ひっどいなぁ」と思いました。
許せないポイントが4つあります。


1・ミステリに対する理解が全く乏しい状態(のように見える)で、ミステリ全体を批判している

2・単に、ジャンルを批判したいためだけに書かれた文章であり、誰の事も幸せにしない文章である

3・定義が非常にあいまいな単語を乱用するため、趣旨が掴みづらい

4・「ひっどいなぁ」レベルのレビューなのにイイネが6つもついている(苦笑)

4は、半分冗談ですが、誰からも相手にされていないようならスルー出来たので、一応これも理由です。


☆ネタバレは基本、どんなジャンルの「物語」においても、されない方が良い。



ミステリーでは、読む前にネタバレをされないよう注意しないと、せっかくの楽しみがふいになってしまうのは当たり前のこと。

つまりはそういうものなのだ。たかがネタバレで楽しみがふいになる程度の文芸なのだ。「ミステリは論理が云々」と言ったところで、それはご都合主義から形作られた論理に過ぎず、その作品で展開されるのは手順ですらなく、ただのくらだらない落書きにすぎない。

斜体は引用

ツッコミどころが多すぎる。
まず、本文(引用図書)の方。
『読む前にネタバレをされないよう注意しないと~のこと』とある。
こんなのは僕からすれば、至極当たり前である。何もミステリに限った話ではない。
なぜミステリに限ったのか、理解できない。
M氏が好きそうなSFだってそう
である。あらゆる『物語』がそうだと思う。

たとえば時代小説。
隆慶一郎の「影武者徳川家康」などは、やはりネタバレなしで読んだ方が楽しいに決まっている。
ネタバレを知った上で読んでも楽しいけれど、それは2回目の読書に回せばよい。

SFだってそうだ。アイザック・アシモフの「永遠の終り」の最後の一文には痺れる。
最後の一文はこれだよーとネタバレされてから読むよりも、知らずに読んだ方が楽しい
ネタバレを知った上で読んでも楽しいけれど、以下略。

純文学だってそうだ。アルベール・カミュの「ペスト」のラストにはやはり痺れるものがある。
フランソワーズ・サガンの「悲しみよ、こんにちは」だってそうだ。
セルバンテスの「ドンキホーテ」の、ラスト。キホーテ氏の『改心』などは、読んでいて泣きそうになってしまったほどだ。これだって、できれば知らずに読んだ方が楽しめる。
というかそんな事を言い出したらマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」だってそうである。
むしろ、この作品なんて最後の一行を読むために長大な作品を読んでいるようなもんだ。
つまり、別ジャンルの作品だって、ネタバレは基本「されない方が良い」と思っている。


☆再読に耐えうる(ネタバレを知っていても楽しめる)ミステリも多数存在する

逆の事を言おう。内容を知っていたら、(他のジャンルの作品は楽しめるのに)ミステリは楽しめない、とM氏は言いたいようだ。
だが、本当にそうだろうか??
アガサ・クリスティの「終りなき夜に生れつく」。この作品は、いわゆる倒叙トリックものであり、犯人当てクイズと言ってもいい作品だ。しかし、犯人を知ってから読めば、登場人物たちにより一層愛着が湧くだろう。
あの時、あのキャラは実はこう考えていたのか……と台詞の真の意味に感じ入るだろう
どうすれば、この事件を防げたのか、考えもするだろう。どのタイミングでなら、犯行を未然に防げたのか? 何せ、被害者は、自分が殺されることを知っていたのだ。

優れた犯人当て小説は、登場人物も魅力的に描かれており、時には事件やトリック以上の楽しみを読者に提供してくれる。
つまり、犯人当て小説にしたって、「ネタバレで楽しみが減る」事は間違いないが、「楽しみが残る」作品は多数存在する

にもかかわらず、「たかがネタバレで楽しみがふいになる」「程度の文芸」と書くのは、非常に乱暴な論理誘導である。



☆娯楽小説は「読み捨て文学」なのか?



もともとミステリーは読み捨ての娯楽文学という面があり、もちろんそれでかまわないのですが、その作品が後世まで残り、豊かなみのりを生むかどうかわかるまでには、時間がかかるものなのです。

この後半は前半をなんとか取り繕おうとしているものの、実際ミステリは読み捨て文学であるにすぎない。ネタバレという枷を作者も読者も重要視するかぎり、そこから踏み出すことはできないのだから。

だがまぁ、安心して欲しい。スタージョンの法則というものがある。ミステリは、その100%が、そちらの90%に含まれているというだけの話だ。

ここも問題点が多すぎる。
第一、『読み捨て文学』の意味が解らない。
恐らく、「語り継がれる名作」>「すぐに読み捨てられ忘れられる作品」という不等号が氏の中には存在するのだろうし、これ自体は僕としても同意ではある。
しかし、だ。「非常に優れた娯楽作品」は、読者の記憶に鮮明に爪痕を残す。
そしていつまでも、あの作品は楽しかったなぁと思い返すのだ。再読をする事もあるだろう。
たかが娯楽作品。されど、娯楽作品ではなかろうか?
しょうもないところを言うなら、ジョイス・ポーターの「切断」は、犯人のあまりの動機に卒倒した。
おったまげた。これは名作だと思った。
ここまでが、『犯人当てクイズ系作品を含む、娯楽小説』への擁護である。
優れた娯楽小説は、優れた純文学作品同様、再読(ネタバレを知っての読書)に値する。


☆そもそも、ミステリは読み捨てにされているだろうか?


さて、ミステリほど、大昔の古典作品がオールタイムベストに出てくるジャンルも珍しい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88100

この表を見ていただければわかるが、50年も60年も昔の作品がしつこくリストに入ってくる事を、
M氏はどう説明するのだろう?
これが『読み捨て文学』の現状だろうか? 
そして、ネタバレという枷があるのは、何度も言うようにミステリに限った話ではない。

『シン・ゴジラ』(SF)の第2形態(芋虫)が実はゴジラに変形する事は、知っていたって楽しめるが、知らない方が楽しめる。これを枷と呼ぶ理由が分からない。
枷があるのは他ジャンルだって同様である事は既に上でも述べた。


そして『ミステリの100%』という単語を見るに至って、
「あーあ、言っちゃったよ」という気持ちでいっぱいなのである。
100%、と言ってしまったらもう言い逃れはできない。
1作や2作程度の例外があったら、その時点で100%ではなくなる。


しかし、ミステリとは下に記述するように、「種々様々な作品が混在する集合体」であり、
8作や10作程度読んだだけで一望できるほど「狭い、同タイプの作品ばかりが乱立する集合体ではない」のだ。
M氏は恐らく、「ミステリとは、犯人当て、トリック当てクイズだから、正解を知っちゃうと楽しめない」という極めて低いレベルで、ミステリを捉えているのではないだろうか?
違ったら、申し訳ない。
でも、そうとしか私には読めなかったのである。
そして、そのレベルでとどまっていると仮定すると、『ミステリ批判をするレベルには達していない』。


☆ミステリとは、本格ミステリ(犯人当て、トリック当てクイズ)だけではない


簡単にたとえよう。
『ミステリ』とは『ラーメン』である。
代表は『昔懐かしい昭和の醤油ラーメン(本格ミステリ)』だが、
『塩』も『味噌』も『トンコツ』も『鶏白湯』も『つけ麺』も『まぜそば』も存在する。
M氏の『ラーメン(ミステリ叩き)』は『昭和の醤油ラーメン』には当てはまる可能性はあるが(それすらも、前述のアガサ・クリスティ作品などには当てはまらない)、
塩や味噌やトンコツや鶏白湯やつけ麺やまぜそばには当てはまらない。



犯人当て、トリック当てに特化した作品がアメリカで主流だったのは、1930年代までだ。
ジョン・スラデックが犯人当て小説「見えないグリーン」を1977年に書いた時、
全くウケず「昔だったらウケたのになぁ」とぼやいたエピソードがある。

日本の状況はどうか?
これも、1950年代後半に松本清張が登場した時点で、この手の論争は終わっているはずだ。
松本清張は、従来の犯人当てクイズ作品を
『人物が描かれていない。社会が描かれていない』と強く批判し、ハンセン氏病の問題を取り扱った「砂の器」などの作品を残している。
その後、島田荘司「占星術殺人事件」などを契機に再び昔の流行が勃興し、再び日本のミステリ界に「犯人当てクイズ系」作品がカムバックしたのである。


手前味噌で恐縮だが、種々のアンケートをまとめたこちらの記事を見て欲しい。

http://toolatetoolate.dreamlog.jp/archives/5302593.html

http://toolatetoolate.dreamlog.jp/archives/5303975.html

この中に、氏が言うような『犯人当てクイズ』がどの程度存在するのだろう?
ある程度存在する事は事実だ。
何せ日本人は、この手の作品が好きな方が多いのである。


しかし、だ。
たとえば水上勉の「飢餓海峡」はどうだろう? 
貧困に喘ぐ戦後の闇社会を生き抜く、男女の人生を描いた素晴らしい文芸作品である。

ローレンス・ブロックの「八百万の死にざま」はどうか?
アルコール依存症を周囲の人に告白するまでを描いた、優れた人物小説である。

笠井潔の「バイバイ、エンジェル」はどうか。
これは、『革命論』として提出されてもおかしくない、評論・思弁小説である。

ウィリアム・アイリッシュの「黒い天使」は、都会を舞台に、無力だった女性が逞しく生きていく成長物語だし、
マリオ・プーヅォの「ゴッドファーザー」は、マフィアを主人公にした『家族』と『仕事』の物語。
グレアム・グリーンの「ヒューマンファクター」は、『家族』と『祖国愛』の板挟みになった男の物語だ。

スチュアート・ウッズの「警察署長」は、黒人差別が徐々に無くなっていく田舎町の発展史的作品だし、ジョゼフ・ウォンボーの「クワイヤボーイズ」は、ブラック職場である警察官がストレスでおかしくなっていくような話である。
いずれも『読み捨て文学』などと簡単にバカにできる作品ではないように思うが、いかがだろうか?

犯人当てクイズ(パズラー・本格ミステリ)以外にも、
サスペンススリラー、警察ドラマ、スパイ小説、西部劇、冒険小説、法廷モノ、社会派、ピカレスク小説、ハードボイルド、ユーモアミステリなどなど、これらすべてが『ミステリ』なのだ。
基本的に「人が犯した犯罪」が作中に登場すれば、それはもうミステリだと考えた方が良い
ドストエフスキーの「罪と罰」や、ハーパー・リーの「アラバマ物語」すら、ミステリのオールタイムベストにカウントされている事に注目していただきたい。

この状況を知った上で、なおM氏は『ミステリの100%がクズである』と書いているのだろうか? 



☆配慮のようで、言葉足らず

まぁ、そう言ってしまえばミステリファンの人は怒るかもしれない。だから、言い換えよう。ネタバレで楽しみがふいになるような文芸あるいはマンガ、ドラマ、映画は、たかがその程度の作品なのだ。

ミステリファンへの配慮のつもりだろうとは思うが、これに関してはM氏の表現が誤解を招いているように思う。
前述したように、ほぼ全てのジャンルにおいて、
ネタバレがあれば楽しみの『何割か』は『ふいになる』。

M氏がそういうつもりで書いたのではないだろうことぐらいはわかるが(何せ氏はSFがお好きのようなのだ)、この表現では『ほぼ全ての物語が、たかがその程度』の作品ということになりかねない。

この部分に関しては、『ふいになる』の定義が曖昧過ぎるのだ。
100%ふいになるのか、50%ふいになるのか。
ネタバレを聞いた瞬間、100%楽しみがふいになる作品は、まぁその程度の作品と言われてしまっても仕方ないかもしれない。
しかし、50%ふいになる作品まで含めるなら、ほぼ全ての物語がここに含まれるように思う。


M氏のこのレビューは、
『ミステリ』という定義があいまいな単語と、
『ネタバレをされると楽しみがふいになる』という定義があいまいな単語
を重要視して書かれた
批判レビューだが、
肝心の『ミステリとは何か』をM氏はきちんと明示できていないし、
『楽しみがふいになる』についても、説明が不足している

親切な読者が、『ミステリ本文を問題編として、探偵登場以降を回答編とした、単なる答え合わせクイズのようなミステリは』と本文を補ってあげないとまともに読めないのだ。
だって、『ミステリ』とはなんなのか、全然伝わってこないのだから。

そしてミステリが何なのか、M氏がハッキリわかっているなら、ミステリだけを殊更ネタバレと結び付けて批判するような真似はしないだろう
『パズラー』とか『本格ミステリ』のように、対象をもっと狭めて書くだろう。
『社会から切り離された知的遊戯としてのミステリ作品は』のような、慎重を要する書き方になるはずだ。


僕はこのレビューに納得が行かず、氏にコメントを寄せたところ、
紳士的な(喧嘩腰ではない)コメントをいただいた。
氏自身に含むところはない。が、このレビューに関しては酷い、と思っている。


・ネタバレに負けない、再読に耐えうる作品を期待したい

という氏の想いに関しては、私も全くの同意見
だ。
しかし、そこにミステリを持ってきて、ミステリを叩き始めるのは明らかにおかしいだろう。

先の展開をワクワクしながら読む、という楽しみ。
それを奪いかねないネタバレは、(気にしない人もいるだろうが、気にする人にとっては)できれば
ないに越したことはないのである。

それは、ミステリだろうが、SFだろうが、同じだ。