生活に疲れた社会人主人公と、社会的弱者のロリータ。
「夜のひつじ」作品のロリータシリーズでは定番の組み合わせだが、本作の主人公(「僕」)は殊更自罰感が強いように思われる。
何かのバックボーンがあるのかと思ったら、特に何もなかった(読み逃しでなければ)のは拍子抜けだけど。

夜のひつじ作品が「キリスト教」的世界の影響下にあることは指摘するまでもない。
生活に疲れ、「純粋さを失いかけた」主人公を救うのは、無垢なる天使こと「ロリータ」たちだが、その「ロリータ」たちにすら罪の萌芽は見受けられる。

人は子供から大人への成長過程で、社会制約と自らを客観的に観る眼を学ぶ。
「ありのままの感情を、ありのままにぶつける」事への躊躇いは増えていく。
周囲の目を気にして、仮面を被るようになる。
ありのままにふるまうと、奇異の眼で見られるから。
奇異の眼で見られることに耐えられるほど、強くないから。

キャプチャ2

僕にあげられるのは「楽しい時間」ぐらいだから、それすらあげられないならいる意味がない。
僕がもらえるのも「楽しい時間」ぐらいだから、それすらもらえないなら時間を割く意味がない。
金銭や情報といった『価値』ではなく、ただ『楽しい時間』を分け合える関係。
それが、『友達』であり『愛』だと思う。


キャプチャ3

キャプチャ4

今までの「夜のひつじ」作品がそうであったように、本作も『あらすじ』として語れるような突飛かつ新奇な筋はない。
ただ、そこに流れているポエミスティックな空気感は、何物にも代えがたいものがある。

キャプチャ7

肉体的な「抱擁」も、言語での「抱擁」……平たく言えば、深いレベルで相手に慈しみの言葉をかけ合う事も、日本社会には欠けている、と感じる。
抱きしめ、抱きしめられる。ある種ウェットかもしれないが、そういった関係が皆無だからこそ社会生活のストレスは一向に軽減しないのではないかとも思う。
リラックスして、肌と肌が触れ合う感覚は癒しだ。そういった機会が絶対的に欠けている、と思う。

「ロリータ」シリーズを語るとき、どうしても『自分語り』の側面が強く出てしまう。
自分の内面を強く覗き込むような、そんな詩情に満ちている、そういった作品なのだろう。