人は自己正当化したがる生き物でございます

カズオ・イシグロの「日の名残り」を読了いたしました。
私が愚考いたしますところ、この作品の語り手であるミスター・スティーヴンスは、自分の意志を持たず、ただダーリントン卿という主人を盲目的に信じ、彼の破滅を食い止める努力をしなかった愚か者にございます。

また、ミス・ケントンと相思相愛でありながら、自身の『執事道』と生来の無神経且つ、コミュニケーション障害により、ミス・ケントンを失望させ、彼女を失った愚か者にございます。

ミスター・スティーヴンスが、ダーリントン卿の反ユダヤ的言動を「快く思っていなかった」と口では言いながら、ユダヤ人に同情するミス・ケントンを、数か月も不謹慎なジョーク・からかいに使用した点を踏まえましても、私の考えが間違っていたとは言えますまい。

このような愚か者である、ミスター・スティーブンスが自身の生涯について、悔恨の情を漏らしたシーンでは思わず「ようやく気がつかれましたか」と思いましたが、直後に通りすがりの男性に「前を向いて生きよう」と
励まされ、すぐに気持ちを切り替えたのもつくづく残念でございました。
しょせん、愚か者は死ぬまで愚か者であり続けるしかないのです。
「働き者の愚か者」ほど手におえないものはないと申しますが、まさにその典型例であると言えましょう。

とかく、人間は自己正当化をしたがる生き物にございます。ミスター・スティーブンスがそれを行なったからと言って、ここまで辛辣に批判する資格が私にあるかどうか、そう反問なさる方がいれば、私は沈黙を守る事を選ばざるを得ますまい。

なお、この文体は本書の語り手を模倣したものでございます。
普段以上に読みにくいものとなっておるやもしれませぬが、ご理解ご寛恕のほど、なにとぞお願い申し上げます。

ちなみに、ミスター・イシグロの作品ならば、私は


という作品に大いに心を動かされました。
本書を読んだのも、この作品があまりにも素晴らしく、感銘を受けたからにございます。

ではなぜ、「わたしを離さないで」の感想を書かずに本書の感想を書いてしまったのでしょう?
この文章を読んだ、紳士淑女の疑問は至極もっともであると存じます。

そちらの感想も、何かの折があれば書きたいと思っているのでございますが、やはりあまりにも素晴らしい作品の感想というのは逆に書きにくいものでございます。

ただ、ヴェールに覆われて残酷な真実を知らなかった少女時代から、
少しずつ世界の秘密を知る思春期を経て、残酷な現実に直面する、
悲しくも美しい青春小説だとだけ申し上げておきましょう。

また、「わたしを離さないで」の登場人物たちはある特殊な宿命を背負って生きておりますが、これは決して彼らの特殊性ゆえの不幸ではなく、より普遍的なものだと私は愚考いたします。

何故なら、多くの人間は大人になるにつれ、色々と考え込む機会が増え、
子供の頃には見えなかった残酷な現実に直面するからでございますし、
全ての人間は、寿命により遅かれ早かれ死を迎えるからでございます。

また、私のように先天的な障害を持って生まれてきた人間は、やはり彼らほどではないにせよ、選べる道は限られてきますし、
彼らはその死が、少し速かっただけと考える事もできましょう。

それらも含めて、「わたしを離さないで」は本当に胸が張り裂けそうな、
2022年に読んだ本ベスト10入りはほぼ間違いなしの、傑作だったと申し上げても、言いすぎではございますまい。

紙面もそろそろ尽きました。

ミスター・スティーブンスの文体模倣はそろそろやめにして、
次の記事では普段通りの文章で感想を書きたいというのが、
私の切なる願望でございます。