リンク先の記事自体は僕の意見というよりも、OYOYOさんの記事をうまくまとめるという意図で書かれたものなので、何とも言えないところなのですが、僕自身否定的な意味で「長い」という言葉を口にすることは多いです。
なのでここからは、本記事での「長い」ではなく、fee自身が何を思って「長い」と言うのかについて書きます。
否定的な意味合いで使われる際の「長い」という単語には2種類ありまして、1つ目は単純な「長さ」の話。
2つ目は単純な長さの話ではなく、「退屈な時間が長い」というもの。
「長い」と言った場合、筆者がどちらを指して言っているのかは注意深く吟味する必要がありそうです。僕の場合、多くは後者の意味で使っています。
ではなぜ「退屈だ」と感じてしまうのか。というと、アナーキーさんが仰っている
>>日常回が長い
というところに尽きるかなと思います。
日常シーン自体が不必要だとは僕も思いません。
ですが、『ストーリー上、大切な意味を持つ』か、もしくは『描かれる日常に、プレイヤーが心動かされる』。この2つのどちらかがない、ただただ流れていく日常は、割とシビアに見てしまいます。
日常シーン自体に伏線を散りばめることや、適度に物語を動かしていくなど、何かしら「刺激」を与えることは出来るように思います。
逆にその日常シーンを心地よく感じた人や、そもそも「変化のない日常シーンを求めてプレイしたユーザー」にとっては、日常シーンが「長すぎる」とは思わないでしょう。
(僕は「サザエさん」を見ると「退屈だなぁ」と感じる人種なのですが、「サザエさん」が大好きな人、というのはたくさんいますよね。そういう、嗜好の違いみたいなものもあるかと思います。)
(僕は「サザエさん」を見ると「退屈だなぁ」と感じる人種なのですが、「サザエさん」が大好きな人、というのはたくさんいますよね。そういう、嗜好の違いみたいなものもあるかと思います。)
個人的には、アナーキーさんの仰る
>>人々の心の変化を描く
ことが巧くできていれば、日常シーンは物語において十二分に機能しているので、『必要な長さ』と言っていいと思います。
ただ、「それが出来ておらず、単に日常が長いゲーム」もまた多いとも思います。
その長さが『必要だ』と感じたならば、僕は叩こうとは思いません。
エロゲーではないTVドラマの話で恐縮なのですが、「新撰組!」という昔の大河ドラマにハマっていて、
現在TSUTAYAで借りて見ています。
現在TSUTAYAで借りて見ています。
このドラマは本当に「日常回」が長く、放映から20話(5ヶ月)経ってもまだ、新撰組が結成されませんw ですが、この「日常」が面白くて、仲間たちが本当に愛おしいのです。
そして、「長い」日常回でたっぷり感情移入したからこそ、後半に待つ、隊士たちとの別れが心に響く。そういう『必要な』日常だと思います。
そして日常シーンにおいても、(ややあからさまではありますが)伏線が貼られているのがわかります。
緩急の付け方が巧いんですね。
そして日常シーンにおいても、(ややあからさまではありますが)伏線が貼られているのがわかります。
緩急の付け方が巧いんですね。
強引に僕の意見をまとめますと、
日常には「物語上何らかの機能(伏線・説明・平和の象徴・感情移入を促す等)」があるか、
「心揺さぶるような面白さ」が必要で、それらがない(もしくは感じ取れない)と槍玉に上がりやすい。
結局は、面白いものが読みたい……ということになりますね。