語り手(ワトスン役)ナディアと、矢吹探偵
評価はB+~A-。
表のストーリーは、ラルース家で起きた殺人事件。
オデットとジョゼットという中年姉妹と、その周囲の人々が殺される。
密室トリック、アリバイetc→『犯人は誰だ!?』という、お馴染みの小道具が現れる。
語り手はナディア。
女性の武器を最大限に活かして男性を手玉に取って楽しんでいそうな、
なんだか生々しい感じの、フツーの女性である。
好きな男に焼餅を焼かせるため、好きでもない男に粉をかけたりとか。
新たな美女の登場に『アタシの方が魅力的よ!』とムキになって、張り合ってみたり。
……フツーか?
個人的にはそういう女性に振り回された経験があって、僕としては良い事は何一つなく疲れるだけなので、
現代日本ではフツーじゃない事を祈りたい。
探偵は矢吹駆。話す事が一々、難しい。衒学的、とでも言うのだろうか?
『簡単な事を、勿体ぶってわざわざ難解に話す』ようなキャラクターだ。
物語の特性上、仕方ない部分も多いのだが、いやはや読んでいて疲れるw
まぁたとえば、
観察された事実を論理的に配列すれば唯一の道を辿って確実に真実に到達する事ができるという近代人の確信は、たとえばこんな挿話の中にも簡潔に示されている。
……部屋のなかで男が死んでいる。妙なのは、被害者が扉に近い場所で襲撃されたのにもかかわらず、おそらく犯人の逃走の後に部屋の中央まで這っていって、テーブル上の砂糖をひっくり返したうえ、その砂糖を固く握りしめて死んでいたという事実だった。
探偵はまず、握りしめられた砂糖は、ただ犯人を指示する一種の記号(シーニュ)であると考える。しかし、これが単なる独断に過ぎないのはあまりにも明らかだ。砂糖を握っていたという事実の中には、権利上同等な無数の意味(シニフィカシオン)が含まれている。たとえば、被害者が甘党だったので死ぬ前にもう一度砂糖の甘い味覚を楽しみたかったのかもしれない。たとえば、被害者が、雪国の生まれで、死の幻想が彼に砂糖の輝くような白と新雪の汚れない白とを結びつけさせ、彼に砂糖を握りしめさせたのかもしれない。けれども探偵は、読者にたいしてどんな根拠も示すことなく、握られた砂糖の多義的な意味を一方的に限定し、それが犯人を指示する記号だと断定する。
(以下、延々と続くので省略)
一事が万事この調子である(こいつ、メンドクセェ……)。
ナディアとは別の意味で読んでいてしんどいが、この探偵の個性が物語終盤には活きてくる。
『堕天使』にして『人間以下』でもある、魔王ルシファーこと、マチルド・デュ・ラヴォナン嬢との対決で、
矢吹駆は実に古典的探偵らしく、『悪』を殺すのだ。
ナディア&アントワーヌ&オデットの物語(痴情ミステリ)と、矢吹&マチルドの物語(人民革命論)の乖離
ラルース家で起きた殺人事件。
それを解決すべく立ち上がったのがナディアである。
ボーイフレンド(友達以上恋人未満?)のアントワーヌや、被害者のオデット。
オデットの妹ジョゼットや、家政婦のバルト夫人などの登場人物が絡んで引き起こされる
『古典的ミステリ殺人』は、これはこれで悪い話ではない。
それにしても、オデットにしろジョゼットにしろ、本当に嫌な女たちである。
まぁ彼女たちは『嫌な女役』なのだろうから良いとして、ナディアにしたってマチルドにしたって面倒くさい女である。
この作品は(家政婦のバルト夫人を除いて)面倒くさい女しか出てこない。
そんな女性キャラに対比されるような、『純情で、愚かで、無垢な』青年アントワーヌが愛おしい。
一方、矢吹探偵はと言えば、人民革命論(と言ってしまって良いのだろうか?)を唱える『堕天使マチルド』とのラストバトルが熱い。
矢吹ばりに小難しい理屈を並べ立てるマチルダを、『言葉で殺す』矢吹の活躍ぶりは恐ろしいほどだ。
ここで行われているのは、『肉弾を伴わない、バトル・アクション』である。
なぜ、革命は失敗するのか? それは、革命の最大の敵は為政者ではなく、『人民』だからだと説くマチルド。
10ページ以上にもわたって繰り広げられる台詞を引用するのはたまらないので、ほんの少しに留めるが、まぁこんな具合。
『人民』とは、人間が虫けらのように生物的にのみ存在することの別名です。日々、その薄汚い口いっぱいに押し込むための食物、食物を得るためのいやいやながらの労働、いやな労働を相互の監視と強制によって保証するための共同体、共同体の自己目的であるその存続に不可欠な生殖、生殖に男たちと女たちを誘い込む愚鈍で卑しげな薄笑いに似た欲情……。
この円環に閉じこめられ、いやむしろこの円環のぬくぬくとした生暖かい暗がりから一歩も出ないような生存の形こそ〈人民〉と呼ばれるものなのです。つまり、人民とは人間の自然状態です。だから、あるがままの現状をべったりと肯定し、飽食し、泥と糞のなかで怠惰にねそべる豚のように存在しようと、あるいは飢餓の中で、その卑しい食欲を満たすため支配的な集団にパンを要求して暴動化し、秩序の枠をはみ出していくように存在しようと、どちらにせよただの自然状態であることに変わりはありません。
だから人民は、本質的に国家を超えることができないのです。国家とは、自然状態にある個々の人間が、絶対的に自己を意識しえない、したがって自己を統御しえないほどに無能であることの結果、蛆が腐肉に湧き出すように生み出された共同の意志だからです。制度化され、固着し、醜く肥大化した観念、これが国家だからです。
(以下延々と続く)
(引用するのも疲れた)。
そして、革命を真に達成するためには、核兵器を持って人口の9割を吹き消してしまえば良いとまで語るマチルド。
まさに、RPGに登場する大魔王の風格だ。
そんな大魔王に立ち向かうのが、我らが探偵、矢吹である。
少女時代のマチルドは、村で皆からいじめられていた。誰も彼女を助けるものはいなかった。
マチルドは社会から疎外され、自らを阻害した社会を憎むようになる。
矢吹は言う。
君はただ、普通に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ
これはキツい……。
そうして矢吹に心を折られ、論破されてしまったマチルドは死んでしまったのであった。
勇者矢吹は、大魔王マチルドを討伐する事に成功したのである……。
古来、名探偵は犯罪者の粗を指摘し、犯人を捕まえてきた。
しかし、犯罪者が犯罪を犯さずに済むような、幸福な人生を差し出す事はできなかった。
そういう意味で、マチルドの『自己欺瞞』を暴き、マチルドを殺してしまう矢吹の存在は、
確かに『古典的な名探偵』に似つかわしい振る舞いかもしれない。
人を殺してしまったのだからこれぐらいされても仕方ないかもしれないが、
『普通に生きられない自分を持て余した、厨2病患者』に対して、その事実を痛烈に突きつけるのではなく、
もっと優しさと寛容さを持って、『普通に生きられる』ように手を差し伸べてほしい……
と、『普通に、生きられない私(fee)』は思うのでありました……。
感想まとめ
表ではラルース家の殺人古典ミステリが行われ、裏では探偵矢吹のマチルド討伐が行われるわけだが、
この2つ、どうもかみ合わせが良いんだか悪いんだかがよくわからない。
そもそも、この作品はミステリが書きたくて書いたんだか、革命論が書きたくて書いたのかもよく分からない。
比重は明らかに後者に傾いている(それが悪いというわけではない)。
個別で見る限りどちらも悪い話ではないのだが、どうも矢吹VSマチルドのインパクトがデカすぎる。
裏では『核兵器で人民を殲滅する』だのしないだのの話をしているのに、
表では『中年男女が何人か亡くなった』だけ(??)なのである。
表の犯人アントワーヌは、強かで生臭い女性たちや、堕天使マチルドだの、それを論理で殺しにかかる殺人探偵矢吹だのに比べていかにも弱々しく、健気で儚い。
そんなところもまた良いのではあるが、
大魔王が降臨している中では、『ラルース家の殺人事件』がどうでもよくなってしまう。
そんな、アンバランスさも感じてしまった。
今日も内戦で数多くの命が奪われているシリアやらアフガニスタンを尻目に、
1人や2人の男女が奇怪な死を遂げただのなんだの騒いでもなぁ……という、この微妙な読後感こそが
笠井氏の狙ったものである可能性も捨てきれず、
『一粒で二度おいしかった』のか、『良さを殺し合ってしまったのか』は何とも判断しづらいのだが、
独特な読後感であった事は確か。
メンドクセー論説を延々読まされるため人を選びそうだが、まぁ良かったら挑戦してみてください。