2020年08月
私が最初にバルセロナを好きになったのは、リバウドが活躍していた頃でした。
あまり評判の良くないファンハール時代も、私はバルセロナが好きでした。
一方で、一時期興味が離れた時期があります。
それは、リケルメを中心にした、レシャック、セラ・フェレール時代です。
2006年のワールドカップを見てもわかるように、リケルメは非常に魅力的な選手ですが、バルセロナでは残念ながらマッチしませんでした。
彼の存在は、ロマンを秘めた滅びゆく恐竜でした。
そして、やってきたのがライカールト監督です。
折しもファンハールが引き上げたシャビやイニエスタが中盤に定着し始め、
ロナウジーニョ、エトー、そしてメッシ。
最高の時代が始まりました。
私は彼らのサッカーの虜になりました。
特に、ロナウジーニョの活躍で、レアル・マドリ―を3-0で破ったクラシコは今でも忘れられません。
そんなライカールト時代ですが、最後の1年は少し陰りが見えてきました。
新監督はグァルディオラ。まだ実績がほぼない彼は、サッカー史上に残るチームを作り上げました。
GK バルデス
DF プジョール、ピケ、アウベス、アドリアーノ
MF ブスケッツ、シャビ、イニエスタ
FW ペドロ、エトー(ビジャ)、メッシ
トゥーレ・ヤヤを冷遇したグァルディオラ、ロナウジーニョとエトー、デコを冷遇したグァルディオラに抱いた不信は数試合で消し飛びました。
常にボールを支配し続ける、圧倒的なポゼッションとティキ・タカの響き。
サッカーというゲームをオーケストラのように指揮する、シャビ・エルナンデスと前線の王メッシ。
それが、バルセロナのユースから育てられた選手たちであることの誇らしさ。
この11人(12人)は、8人も下部組織からあげられた選手たちでした。
当時から目を疑うような移籍もありました。
特にイブラヒモビッチの獲得は、結果論ではなく、愚かなものでした。
彼に、エトー+60億円の価値はありませんし、実際彼は最後まで異物でした。
グァルディオラが去った途端、バルセロナの黄金のリズムは崩れ始めました。
ビラノバがうまく継承できず、マルティーノが壊したバルセロナ。
それでも、そこにはまだバルセロナ『らしさ』がありました。
バルセロナらしさが失われたのは、ネイマールという巨星を獲得した、その時に始まりました。
ネイマール、スアレス、メッシという最前線の圧倒的な個を活かした、ルイス・エンリケ監督のサッカーは、バルサイズムを壊しました。
中盤を大切にせず、前線の個の能力に頼るバルササッカーに、私は失望を感じました。
シャビが衰えた後、獲得したのはクロースやモドリッチのような世界一流の技巧派ではなく、
一段劣るラキティッチでした。
ネイマールを放出した後、いよいよバルセロナは破滅へと進み始めます。
ネイマールを売却した資金で獲得したのはコウチーニョとデンベレ。
的外れもいいところなこのオペレーションで、バルセロナはせっかくの大金をどぶに捨てました。
殊にデンベレは、レンヌ時代から素行が悪い事で有名で、一シーズンを通して継続的に活躍したことがほぼない選手。彼に140億もの金を積むなどバカげた話でした。
その後もグリーズマンにデヨングと、100億円以上の金額で獲得した選手はことごとく外れ、
一方でバルサのカンテラ(ユース)は枯渇していきました。
今ではもう、セルジ・ロベルトとアンス・ファティぐらいしか残っていません。
大して活躍もしない選手を外部から大金で連れてきて、その選手たちの個人能力頼みのサッカーが繰り返され、そうして、なんの敬意もなく放出してしまう。
シーズン初めのラキティッチの処遇を見たでしょうか。
誰がどう見ても、ラキティッチのクオリティは今のバルサには欠かせなかったはずです。
にも拘らず、彼を売りたいフロントは圧力をかけ、ラキティッチを試合に出しませんでした。
『ピッチ内での内容や結果』よりも、彼らには大切なものがあるかのようでした。
黄金時代に比べれば一段劣ると感じたラキティッチが、今のバルサの中盤では最もクリエイティブな選手になってしまいました。
そしてそんな彼に対するリスペクトを欠く処遇。
更にスキャンダルが止まらなくなったのは、バルベルデ監督の解任、
内部でのメッシ、ピケへの誹謗中傷(バルサ・ゲート)、
セティエン監督に対するサポートのなさ、
ピッチ内での壊滅的な内容、そしてバイエルンに2-8で『順当に』『当たり前のように』敗北し、
クーマン新監督の就任が決まりました。
美しいテンポでパスを繋ぐ、中盤重視のサッカー。
育成年代から選手を大切に育て上げていく、選手を大事にするチーム。
強くて、そして仮に優勝できなくても、試合中に何度も美しさに息を呑んでしまう
壮麗なオーケストラのようなチーム。
今はもう、何も残ってはいません。
残っているのは負債の山と、無能なフロント。
私が愛したバルセロナは、もうどこにもありません。
まだ見限るのは早いという気持ちもどこかにはあります。
しかし、私はアーセナルへの気持ちが覚めた後も10年近く、愛着を持って追いかけましたが、
彼らは遂に私の心を引き戻すことはできませんでした。
単純な結果ではないのです。
それはクラブ哲学であり、フロントの問題なのです。
こんな記事を書いておいて、来シーズンバルセロナのサッカーに熱狂する私がいるかもしれません。
もしそうならば、軽薄な人間だと皆からは思われるかもしれませんが、それに勝る幸せはありません。
私は美しいサッカーが見たい。
大好きだったバルセロナに、会いたい。ただ、それだけなのです。
大好きだったバルセロナスタイルを参考に、チームを作り続けているチームがイギリスにあります。
ご存じ、マンチェスター・シティです。
私は、1つのチームを頑なに愛する、ユニフォームへの愛を持つ人間ではありません。
私は、美しいサッカーを愛します。ミーハーですし、移り気です。
ですが、そんな私でも『本物』と『偽物』の違いはわかります。
確固とした方針があるフロントと、ないフロントの違いはわかります。
マンチェスター・シティには方針があります。だから強いのです。
リバプールにも、バイエルン・ミュンヘンにも方針があります。
チェルシーには方針がありません。
バルセロナにもありません。マンチェスター・ユナイテッドにもありません。
だから、たまに良いシーズンがあったとしても、いずれダメになってしまうのです。
「クッキークリッカー」のアイドルうぉーず版、と言えばいいのかもしれないが、
「ぺんぺんZ」は課金ゲー(課金する人は、よほどの変わり者だと思うが)であり、
クッキークリッカーは無課金ゲーである。
とりあえず画面に次々現れる女の子をクリックするだけのゲームである。
ツール(アイテム)を充実させることで、オート化できるようになるが、ダメージはかなり少ないのでひたすらダルい。
また、
序盤の攻略としては、まずルビーは全部「ちびどるガチャ」にぶっこめ。
ちびドルの人数が増えるだけで攻撃力が跳ね上がる。
ステージ160か180かそのあたりでだるくなってくると思うので、転職。
転職を繰り返して、アパレルを取るのが次のステップになる。
そんな感じでやれば、根気さえあればステージ240ぐらいまでは行けるだろう。
まぁそれ以上はだるいけどな……。
これに課金をする人がいるとはとても思えない。
1000円ぐらいの同人ゲーを買った方がよほど有意義な時間を過ごせるだろう。
なぜ、私は記事を書くのか
自分の事を知ってほしい。相手の事が知りたい。
自分の気持ちや知識、情報を相手に伝えるため、人類は会話を生み出しました。
しかし会話だけでは、目の前にいる人間としかコミュニケーションが取れません。
そこで、生まれたのが文字でした。
文字の誕生によって、遠くにいる人同士でもコミュニケーションが取れるようになり、自らの知識を後世に伝える事もできるようになりました。
そうした動きの中で、人の想像力は多数の物語を生み出していきます。
作家と読者は場所を超えて、時代を超えて、一つの世界を分かち合えるようになりました。
本というツールを通じて、作者と読者が素敵なひと時を共有する。
作者は物語を書くことで、読者を勇気づけ、笑顔を作り、
そんな読者の笑顔を見て、作者の心にも暖かな火が灯る。
お金をもらうために書くだとか、お金を払ったんだからその分だけ楽しませろというような、そういったつまらない商業主義ではなく、もっと原初的で素朴なWin-winの関係。
作者と読者の幸せな関係を、私は尊く感じます。
そうした想いは、本書の題材となった宮沢賢治や、
あるいは本書を描いた野村美月さんもまた、心に秘めていたのではないでしょうか。
私の思い違いかもしれませんが、だからこそ、私はこの本に心を動かされ、こうして記事を書いています。
この文章を読んでくれたあなたに、素敵な本を知ってほしくて。
変質していく目的(「文学少女と慟哭の巡礼者」の感想)
なぜ人は、物語を書くのか。
そうすることで、読む人を幸せにしたかったと、
本書の『悪役』であるミウは言います。
繰り返しになりますが、それは物語を綴る目的の中で、一番素朴で、一番素敵な『志』だと私は思います。
しかし、ミウは物語を描けなくなりました。
当然、彼女は、作家になれませんでした。
他者への憎しみに押しつぶされるようになりました。
ミウは他者から評価されるための手段として物語を綴るようになり、いつしか物語を綴り続ける事でしか、評価を得られない。
好きな人を繋ぎとめられないと、考えるようになってしまいます。
雨にも負けず、風にも負けず、
誰かの幸いのために、命を燃やすことがミウにはできませんでした。
デクノボーと呼ばれ、褒められぬ事に耐えられませんでした。
『誰かの幸いのために、命を燃やす』のではなく、
愛されるために、読者を自分に繋ぎとめるために、物語を綴るようになった彼女は、物語が生み出せなくなると、盗作に手を染めるようになりました。
純粋な『志』は無惨に変容し、ミウは何も生み出せない、本物のデクノボーになってしまいました。
物語の語り手であり、かつてのミウの半身でもあった井上心葉(このは)は、
ただ、大好きな人に気持ちを伝えようと、その想いのままに物語を綴り成功を収めます。
ジョバンニ(ミウ)は自分を置いていったカムパネルラ(心葉)に、妄執とも呼べる愛憎を抱くのでした。
そんな銀河鉄道の旅を影で操る『ブルカニロ博士』の正体はなかなかに意外で、完全にジョバンニ(ミウ)を食っている点もまた、エンタメとしてとても驚かされました。
文学少女シリーズの紹介(全8巻のシリーズですが、私が読んだ、5巻までの紹介です)
順番が逆になりましたが、ここでシリーズの紹介を簡単にします。
(いきなりミウとか心葉とか言われても困りますよね:汗)
本シリーズは、元新人賞作家(絶筆中)の少年、井上心葉(このは)と、『文学少女』である天野遠子の2人を中心に、2人にかかわる人々のドラマを描いた、作品シリーズです。
主に心葉視点で物語が進み、どうにもならなくなったところで、物語を解きほぐすため、満を辞して遠子が登場する。心葉をワトソンに、遠子をホームズに例えるなら、ミステリ的な骨格を持ったシリーズともいえると思います。
また、洋の東西を問わず、過去の文学作品を下敷きに物語を綴っていくという意味で、二次創作的なシリーズという事もできるでしょう。
どんな作品が下敷きにされているかと言いますと、
1巻が「人間失格」、2巻が「嵐が丘」、3巻が「友情(武者小路実篤)」、
4巻が「オペラ座の怪人」(原作未読です!読んでおけばよかった!)、
5巻が「銀河鉄道の夜」というラインナップになっております。
特に2巻の「文学少女と飢え渇くゴースト」
における『狂気の愛・妄執』は、本家『嵐が丘』のインパクトを超え、魂の震える思いがしました。
1巻の「文学少女と死にたがりの道化」
にしても、虚ろな内面を愛想笑いで隠す、大庭葉蔵のキャラクターを見事に活写されていたように思います。
そして何より、宮沢賢治の生き方を通して、素朴な物語信仰を綴った本書。
全く売れず、社会から見向きもされなくとも、雨にも負けず、風にも負けずに物語を綴った宮沢賢治の生き様を改めて振り返る事で、
ワナビ(死語)としての私も、とても勇気づけられる想いがしました。
たとえ、ほとんどの人に読まれなくても、プロになれなくても、
伝えたい想いを文章で、物語を通して、綴っていきたいと、
改めてエネルギーが湧いてきた次第です。
まぁ、要らない茶々を入れるなら、病みキャラが多すぎだろ、
女性登場人物の半分がメンヘラやんか!と言いたくもなりますが、
『人間失格』で『嵐が丘』なので仕方ないかな、とそこは目をつぶってくださいw
あ、最後に、琴吹ななせちゃんがツンデレかわいいので、そこもプッシュしておきます!
最終的に心葉とくっつくのは、多分ななせじゃなくて遠子なんだろうなぁ。
現状、私の『インドア系やりたい事』リストは、上から
1 小説を書く
2 読書をする
2・5 RPGをする、ノベルげーを読む、ドラマ・アニメを見る
3 スポーツを見る
となっています。
一方で、やりやすい順は
1、スポーツを見る
2 RPGをする
3 読書をする
4 ノベルげーを読む、ドラマ・アニメを見る
5 小説を書く、
となっています。
一番やりたい事が、一番大変。という状態。
なので、『楽なスポーツ観戦に逃げている』というのが現状です。
現状ですが、ラノベ読書なども含めて、少しずつ物語方向への舵をまた切りたいなと思っています。
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