72点。
想像以上の鬱ゲーでした。
主人公の夕摩は、鏡に映った自分を見て双子のお姉ちゃんを妄想し、
下着を盗んでオナニーするやべぇ奴、なのは冒頭でわかっていました。
なので、可憐な夕摩くんに萌えたり感情移入したりすることは正直できなかったし、
そんな主人公が姉にいたずらされたり、おばさんにレイプされたりしても興奮できないし、楽しみ方もよくわからず、物語中盤ぐらいまでは全然面白くなかったです。
夕摩の周囲も、精神虐待パパは論外として、
オカルト不気味女やら、全く空気の読めない苛々させられる女やらで、好きになれるキャラが一人もいなかったし。
最後まで読むと、その二人も主人公や夕莉よりはよほどまともなのですが。
中盤以降、夕摩君が単なる変態ではなくて、異常者だという事が薄々わかってきて、ある意味面白くなりました。
正直、僕の好みからは全く外れますが、そういう捉え方をするなら、悪いゲームではないなと。
夕香里と夕紀夫の子供が、夕莉と夕摩。
そしてエンディングで生まれる夕莉と夕摩の子供は双子。
この事から、恐らく『歴史は繰り返す』のだろうなと推測できます。
夕香里はカモフラージュのために他の男(礼二郎)と結婚し、
夕香里は実の息子である夕摩に性的虐待をし、夕摩は両親を殺して夕莉と結ばれます。
夕莉、または夕摩もカモフラージュのために他の誰かと結婚し、
実の息子や娘に性的虐待をして、実の子供に殺されるんじゃないかなと思いました。
夕莉も、夕摩も、『相手を籠の中に入れたがる・相手に依存をする』という夕香里の悪癖を、
きちんと受け継いでいますしね。
いちかルートは、今まで『美しく、完璧のように描かれていた姉』の『醜さ』が描かれるシーン
(母と同じだ、と夕摩が感じるシーン)に意義があったように思います。
母だけでなく夕莉も、他の女子と夕摩の関係を妨害していましたし
夕摩だけじゃなく、夕莉にもそういう悪癖があるということです。
ただ、夕摩に何故かめちゃくちゃ尽くしてくれる高橋さんが謎だったのと(金銭欲としか思えないけど……)
精神病院に入院しながら、夕紀夫おじさんの振りをして夕莉と手紙のやり取りをする事は可能だろうか?
という疑問は残りました。
☆タイトルの意味と、夕莉エンドラストについて
タイトルの意味がよくわかりません。
そもそも『少女』ではないですよね。これは『二人』の罪であるはずです。
まぁ、『~少女』というのが「美少女万華鏡シリーズ」タイトルの慣例ですので、仕方がないのかもしれません。
また、ドストエフスキーの『罪と罰』ともほとんど関係はないですね。
そもそもあれはキリスト教小説なので、宗教色がほぼない本作とは『罪』や『罰』の意味も異なってくると思いますし、
本作で言う『罪』と『罰』は、せいぜい『因果応報』ぐらいの意味合いでしかないと思います。
ロシア文学は苦手なので間違っているかもしれませんが、あの作品で言う
『罪』と『罰』とは、『悪行』とそれに対する『罪悪感・心の負担』の事だと思います。
つまり『罰』とは『他罰』ではなく、『自罰』です。
ラスコーリニコフは貧困と家族への想いから、金貸しの老婆を殺害しますが、
自らの罪に苦しみ、大層な殺人理論をでっちあげて、自己の良心を欺きます。
それが有名な『英雄が善行を為すためには、無価値な人間の生命を奪う事も許される』(テキトー)というものです。
その後、ソーニャという聖女(神と言い換えても構いません)と出会った彼は、やがて自らの罪ときちんと向き合い、自首をします。
ソーニャはそんな彼を見捨てず、シベリアまでついていきました。
ラスコーリニコフはきちんと反省し、ソーニャは傍で彼を見守り続けました。
しかし、そもそも、サイコパスである夕摩には『罪悪感』もありません。
『罪悪感』がない人間、良心が欠落してしまった人間には神もありませんし、
『罰』もまたありません。
夕摩が殺すのは全て『怨恨』殺人ですし(夕紀夫は殺されるほどひどい人間には思えなかったけど💦)、
そのことによって自分を正当化する必要性すら、彼は感じていないように見えます。
夕莉や、いちかなど他ヒロインも、もちろんソーニャのような聖女役は務めていません。
となると、ドストエフスキー的な『自罰』ではなく『他罰』。
因果応報。
では、何によって罰せられるかと言えば、上でも少し書きましたが、
『双子の子供』によって罰せられるという未来が想像できますね。
しかしこの一族は本当に罪深い一族というか、どうしょうもないですなぁ……。
救いのないゲームでした。