前置き(バレなし)
書籍が映画化される事は非常に多いけれど、原作の良さを伝えてくれる映画は少ない。
などと書くと、映画好きの人に怒られてしまうだろうか?
僕の場合、『この書籍好きー』→『映画もあるのか! 観てみよう』という流れになる事が多いため、原作ファンの贔屓目もあるとは思う。
私の数少ない経験だと、
4割の原作付き映画が『フザケルナ!』、
3・5割が『本の方が良いなぁ』、
2割が『どちらも面白い!』
0.5割が『映画最高!』という割合である。
さて、私がこのお題で本を薦めたい時、間違いなく一番書きたいのは『フザケルナ!』作品である。
『〇〇? あぁ、あの駄作映画か。知ってるー』という反応は返ってきても、
『〇〇? あぁ、あの名作小説でしょ! 映画は残念だったねー』という反応が返って来たためしがない。
違うんだ! 〇〇は本当は素晴らしい小説だったんだよぉぉ!!
という熱い迸りこそ文章にしたい。
その中でも今回僕が選んだ、最低の『フザケルナ』映画はこれである。
劇場公開版の大ファンは、ここで回れ右をしてほしい。
何故ならこの記事では劇場公開版をぶっ叩くからだ。警告はしたよ!
怒られたくないし、怒らせたくないから、ここで回れ右をしてほしい!
『大ファンほどではないファン』の方には読んでいただきたい。
『劇場公開版が気に入らなかった方』にも、もちろん読んでいただきたい。
では、行きますよ!
小説版の大まかな展開
ウィル・スミス主演の2007年公開映画。何せウィル・スミスだし、そこそこ知名度も高い映画ではなかろうか。
映画を見る前に、僕は原作を読んでいる。
スラスラと非常に読みやすいライトな作品だが、深いテーマも内包している。
ニューヨークの街は、『感染者』に支配されていた(映画だとゾンビっぽいけど、小説版の『感染者』は明らかにドラキュラ)。
人類が生み出した癌の特効薬が、人を感染者に代えてしまい、全人類のほとんどが死滅してしまったのだ。
そんな中、感染者と一人戦い続ける男がいる。ロバート・ネビル。彼が主人公だ。
昼間の世界は、彼のものだ。紫外線に極度に弱い感染者が活動するのは、夜だけである。
街で生き残っているのは彼しかいない。
彼は、感染者への対策を練る。ニンニク、十字架、木の杭。
こうした伝統的な『ドラキュラ』対策が、感染者に対しても有効なのだ。何故、有効なのか。
感染者の生態を徹底的に解明するべく、ネビルは資料を集めていく。
昔馴染みのコートマンも感染者と化した。
地球最後の男、ネビル。感染者との死闘が繰り広げられる。絶望が、孤独が彼を襲う。
そんな中、やってきた謎の女ルース。彼女は感染していないのだろうか?
彼女は、地球で二人目の生存者なのだろうか? 急速に惹かれ合う二人。
だがルースの正体は、感染者側のスパイだった!
というのが、小説版の大まかな展開だ。
ちなみに映画版で存在感の強いワンちゃんは小説にも登場するが、そこまで存在感があるわけでもない(と思う)。
先にも書いたとおり文章は流れるようにスムーズで、ページ数も多くないため、気軽に読めるのだが、
読んでいるうちにグイグイと惹きつけられていく良質なエンターテイメントだ。
そして小説のラストで明かされる、「I am Legend」の意味とは……?
先に言う。間違っても、感染者どもを爆破してカッコ良く女子供を守り、「オレはレジェンドだ!」なんて
独善的な自己満足に浸る愚かな男の物語ではない。
繰り返す。映画版のネビルは、小説版を読んだ後に観ると、単なる自己満足のヒーロー気取り野郎でしかない。
そう、思っていた。
原作の良さを木っ端みじんに打ち砕き、単なるヒーローものに貶めた駄作映画。
だから僕は(ちょっと怖かったけど)、この記事を書こうと思い立った。
しかし、いくら駄作映画とは言っても、やはり記事を書く前にもう一度見直す必要がある。
時間の無駄な気もするが、容赦なく批判するならそれぐらいはしないとね……。
というわけで、観ようと思った僕の眼の前に現れたのは
『アイ・アム・レジェンド(別エンディング版)』の文字。
別エンディング版!? なんじゃそりゃ!! 僕は初めてそんなものの存在を知ったぞ!
というわけで見てみた。
別エンディング版の展開
まず最初に気づくのは、原作小説と比べて『孤独描写』の多い点である。いや、原作にもないわけではなかったが、マネキンを並べたり、マネキンに話しかけたり、始終テレビを流したりしていただろうか?
どちらかというと、感染者対策に頭を悩ませているシーンや、酒に溺れて絶望している印象が強い。
そこを持ってくると、映画版のネビルはやたら寂しそうである。
寂しさの表し方が違うのか、映像ならではの『広いニューヨークに俺は1人』感がそう思わせるのか。
まぁ、普通は寂しいよね。
昼のうちにDVDなどの調達を済ませ、夜は要塞のような家に閉じこもっている。
感染者に見つからないために、電気を消し、カーテンを閉め、雨戸を閉めて閉じこもる。
感染者を捕まえ人体実験をし、ワクチンを作ることでどうにか人類の希望を繋ごうとするネビル。
これは小説そのままだ。
そこに登場するのは謎の女アナ(とイーサンという子供)。
ルースじゃないのかw
お互いが惹かれ合うのは同じだが、アナはれっきとした人間(非感染者)だ。
アナは、『生存者の村』の存在をネビルに伝えようとするが、ネビルは聞き入れようとしない。
絶望に支配され、楽観的な考えを頭から否定するようになってしまったのだ。
そんなネビルに『希望』を説き続けるアナ。
そしてラスト、『感染者のボス』に家を見つかり、遂に襲撃に遭うネビル。
ここまでは元の映画と同じ展開だ。
ところが……
『ボス』の様子がおかしい。
彼の目は、ネビルがワクチンを作るため、ベッドに縛り付けていた『人体実験用』の女性感染者に注がれていた。
『ボス』はネビルを殺しに来たのではない。ネビルに『拉致』された、愛する人を助けに来たのだ。
それに気づいたネビルは、自らドアを開け、女性感染者をボスに明け渡す。
ボスは女性感染者を受け取ると、仲間を連れて去っていく。
そしてネビルは、アナと共に『生存者の村』を探しに旅立つ。ニューヨークは『感染者(新人類)』たちの世界になった。
だが、どこかに『非感染者(旧人類)』の住む世界もあるかもしれない。そんな希望を胸に、広大なアメリカを走る車。運転席に座るネビルの隣には、『希望』の象徴たるアナの姿があった。
小説版のテーマと、映画(別ver版のテーマ)
『感染者』はただの化け物ではない。
ウイルスの特異反応によって、今までの人類とは全く別の特徴を持った新しい種族。
そして新人類もまた、愛を知り、人を赦す事を知っている。
ネビルから見れば、感染者たちは恐怖の存在であり、助けなければならない存在だ。
元の人間に戻さねばならない怪物だという思い込みがあった。そのためには、人体実験も致し方なかった。
ワクチンを作るため、皆を救うためには多少の犠牲は仕方なかった。
しかし、感染者たちから見れば、ネビルこそが『仲間を大量に殺し、人体実験を行う恐怖の存在』だったのだ。
ネビルは恐怖を克服し、『感染者のボス』を信じた。
家に、ニューヨークに閉じこもるのをやめ、アナの言う『希望』を信じたのだ。
これが別エンディング版のストーリーだ。
動物を凶暴にするもの、それは恐怖だ。母熊が最も狂暴になるのは、子熊を連れている時だ。
他者を守るため、自分を守るため、人は狂暴になる。
国もそう、民族もそう、ひょっとすると犯罪者もそうなのかもしれない。
ネビルは感染者を恐れた。ネビルは狂暴になった。
感染者はネビルを恐れた。感染者は狂暴になった。
小説版では結局ネビルは『感染者』を信じる事ができず、それでも『感染者』のルースを愛しながら、死んでいく。
けれど最後に、『感染者』もまた愛を知っていることを確信するところは同じだ。
彼らの間では、ネビルは恐るべき『Legend』だった。
「俺は……生き残るために殺しただけだ」
「わたしたちも、まさにそのために殺しているのよ」「きみの同胞が殺戮に手をそめるとき……どんな表情を浮かべているのか知っているか?(中略)
悦楽にひたっていたよ」とつぶやく。「これみよがしの悦びにね」(中略)
「あなたは自分の顔を見たことがあるの」相手が尋ね返した。「殺しているときの自分の顔を?」布で彼の眉間をぬぐう。
「わたしは知っているわ――憶えている? とても怖かった。あなたは殺すときばかりでなく、わたしを追いまわしたときも恐ろしい顔をしていたわよ」
小説版の『感染者』は言葉を話す事ができる。それでも、『旧人類』のネビルと『新人類』の彼らは争い合う。
映画別エンディング版の『感染者』は言葉を話す事ができない。それでも、彼らは解り合い、赦しあう。
真逆の方向を向いているが、僕はどちらの作品も好きだ。
とかく沈みがちな今の僕は、映画別エンディング版の方がひょっとしたら好きかもしれない。
劇場公開版の映画は? 『感染者』は敵だ! 悪だ! 爆発! 俺は英雄だ!
治療薬を作り、ゾンビを倒した人類を救った彼は英雄だ!
『フザケルナ』としか言いようがない。
なぜ、別エンディング版を公開しなかった? 劇場公開版の方がウケると思ったのか?
僕はこのお題で書こうと決めて、本当に良かった。シミルボンに投稿していて、本当に良かった。
この10年間、僕の中で『フザケルナ』映画の殿堂入りを果たしていた『アイ・アム・レジェンド』に、
こんな素敵なお蔵入り版があるなんて、この機会がなければ気づけなかっただろう。
いやぁ、映画(別エンディング版)って、本当に良いものですねぇ
劇場公開版? そんなものは知らないよ。