レイ・ブラッドベリは、『詩人』である。
彼の主戦場は短編であり、そこには甘く切ないもの、郷愁を強くそそるもの、少年の日のワクワクを思い出させてくれるもの、不気味で怖いものなどがあげられる。
高校生ぐらいの頃にハマり、大人になると卒業すると言われる作家として、日本では太宰治があげられるが、作風はまるで違いながらも同じようなポジションにあるのがレイ・ブラッドベリであり、
私は40にもなりながら未だに太宰やブラッドベリが大好きな、青臭い読書愛好家である。
ブラッドベリの作品はSFとして扱われてはいるが、本質的にはファンタジーであり、科学技術に対する彼の興味関心はさほど強くない。
彼の予言する未来はほぼ間違いなく悲観的であり、核戦争・焚書などのテーマが短編でも頻繁に登場している。その二つがセットで登場するのが本作「華氏451度」だが、本作ではブラッドベリの良さと同じかそれ以上に弱点が目立つように感じる。
彼の先見の明は街中にあふれかえる広告に感じられる。
現代日本でも電車に乗れば、たとえば深夜に行なわれ見られなかったスポーツの試合を、当日の仕事帰りに見たくとも、電車内のニュースでわざわざ教えてくれたり、必要もないのに「あなたへのお薦めの作品」などを強制的に押し付けてくるCM地獄を予見している点はなるほど、さすがブラッドベリだと思わせる(執筆された50年代初頭のアメリカはそうだったのかもしれない)。
一方で、核の危機について描いているにもかかわらず、放射能の知識に欠けている点などはいかにもブラッドベリらしく感じてしまう。
1950年代のSFは核戦争による世界終末モノが多く、私は大好きだったりするのだが、核への恐れを書きながら放射能に対して無頓着なSF作家はブラッドベリぐらいである。
物語的には第一章に登場する謎の少女クラリスの存在が惜しい。なかなか魅力的な登場人物なのだが、すぐに消えてしまうのだ。代わって、相反する感情を持つ悪役上司ベイティーが活躍を始めるけれど。
ディストピアの強度としてもあまり強くはない。検閲・焚書を描いた作品をブラッドベリはいくつも描いているが、オーウェルの「1984年」のような絶対的な水も漏らさぬシステムとしてのディストピア世界の構築はなされていない。
ブラッドベリの良さを感じるのは、最終盤の『人が本になる』というところだろうか。各々が1冊の本として生きる、という描写には、どこか惹きつけられるものを感じる。
ここまで、どちらかと言えばネガティブな感想を書いてきたが、
ブラッドベリファンとして、彼を擁護させていただきたい。
彼の本質はあくまでも短編である。
「火星年代記」、「刺青の男」「10月はたそがれの国」、「太陽の黄金の林檎」などの短編集には、彼の優れた詩人としての性質がたっぷりと詰め込まれている。
彼の主戦場は短編であり、そこには甘く切ないもの、郷愁を強くそそるもの、少年の日のワクワクを思い出させてくれるもの、不気味で怖いものなどがあげられる。
高校生ぐらいの頃にハマり、大人になると卒業すると言われる作家として、日本では太宰治があげられるが、作風はまるで違いながらも同じようなポジションにあるのがレイ・ブラッドベリであり、
私は40にもなりながら未だに太宰やブラッドベリが大好きな、青臭い読書愛好家である。
ブラッドベリの作品はSFとして扱われてはいるが、本質的にはファンタジーであり、科学技術に対する彼の興味関心はさほど強くない。
彼の予言する未来はほぼ間違いなく悲観的であり、核戦争・焚書などのテーマが短編でも頻繁に登場している。その二つがセットで登場するのが本作「華氏451度」だが、本作ではブラッドベリの良さと同じかそれ以上に弱点が目立つように感じる。
彼の先見の明は街中にあふれかえる広告に感じられる。
現代日本でも電車に乗れば、たとえば深夜に行なわれ見られなかったスポーツの試合を、当日の仕事帰りに見たくとも、電車内のニュースでわざわざ教えてくれたり、必要もないのに「あなたへのお薦めの作品」などを強制的に押し付けてくるCM地獄を予見している点はなるほど、さすがブラッドベリだと思わせる(執筆された50年代初頭のアメリカはそうだったのかもしれない)。
一方で、核の危機について描いているにもかかわらず、放射能の知識に欠けている点などはいかにもブラッドベリらしく感じてしまう。
1950年代のSFは核戦争による世界終末モノが多く、私は大好きだったりするのだが、核への恐れを書きながら放射能に対して無頓着なSF作家はブラッドベリぐらいである。
物語的には第一章に登場する謎の少女クラリスの存在が惜しい。なかなか魅力的な登場人物なのだが、すぐに消えてしまうのだ。代わって、相反する感情を持つ悪役上司ベイティーが活躍を始めるけれど。
ディストピアの強度としてもあまり強くはない。検閲・焚書を描いた作品をブラッドベリはいくつも描いているが、オーウェルの「1984年」のような絶対的な水も漏らさぬシステムとしてのディストピア世界の構築はなされていない。
ブラッドベリの良さを感じるのは、最終盤の『人が本になる』というところだろうか。各々が1冊の本として生きる、という描写には、どこか惹きつけられるものを感じる。
ここまで、どちらかと言えばネガティブな感想を書いてきたが、
ブラッドベリファンとして、彼を擁護させていただきたい。
彼の本質はあくまでも短編である。
「火星年代記」、「刺青の男」「10月はたそがれの国」、「太陽の黄金の林檎」などの短編集には、彼の優れた詩人としての性質がたっぷりと詰め込まれている。