まずは点数。 
シナリオ 125/150  キャラクター 135/150 絵 65/100 音 85/100 その他システム 70/100  
印象 40/50  合計 515/650   ESにつける点 84点   47位/約180ゲーム


*「こなたよりかなたまで」の重ネタバレを含みます。


【あらすじ】


本土から海を隔てた島で、葦屋昴は幸せな日々を送っていた。
しかしそんな日常を、一つのニュースが粉砕する。
それは今から3か月後、地球に巨大彗星が衝突するという衝撃的なもの。
それだけではない。
その数日後、全人口のうちごく一部しか入れない避難シェルター行きの権利を、昴は獲得してしまう。


「平和だった日常」は「彗星衝突」、そして 「避難シェルター入り」という二つの【事件】を経てどう移り変わっていくのか。
それが本作の見どころになります。
「人類滅亡」という設定ではあるものの、目を引くアクション要素もなく、事件もほとんど起こらない、非常に静かな印象を受ける作品ですね。



本作は、実に健速氏らしい作品に仕上がっているため、
この感想ではまず健速氏の作品における特徴(ここでは「こなたよりかなたまで」)を振り返り、
その後、「こなかな」と比較しつつ本作を語るというスタイルを取らせていただきます。


【健速氏について――こなたよりかなたまで――との類似点】


★「こなかな」の概要


本作「そして明日の世界より」(以下「そし明日」)は、健速氏のデビュー作「こなたよりかなたまで」(以下「こなかな」)と共通する部分が多々あります。
まるで「こなかな」のリメイクじゃないか、とすら思ったほどです。


そんなわけですので、「そし明日」の感想の前に、「こなかな」のあらすじをざっと振り返らせてください。


主人公、遥彼方と幼馴染の少女佐倉佳苗は両想いである。
幸せに暮らしていた彼方の日常を壊したのは、まさかの末期癌宣告。余命は3か月もなかった。
そんな折、佳苗から告白を受けた彼方。
だが、佳苗を傷つけることを恐れた彼方は、彼女と距離を作る。
そんな彼方を、それでも心配しようとする佳苗。心を鬼にし、佳苗に嫌われようと努力する彼方。
ある日、そんな彼方のもとに吸血鬼のクリスが訪ねてきた。
クリスと契約をすれば、「吸血鬼として、クリスと共に永遠の生」を歩める。そうでなければ、「人間として死ぬ」。
彼方の葛藤は続く。


と、こんな内容でした。こうしてみると、共通点がいくつもあるのが、おわかりいただけると思います。


★彗星衝突の意味――区切られた期限――


「こなかな」において彼方は癌を告知され『余命宣告』を受けます。
過酷な治療に苦しむシーンがありますが、彼の臨終のシーンはどのルートでも描かれませんでした。
同様に、本作においても彗星が衝突するシーン、登場人物たちの最後はどのルートでも描かれません。


そして何より大事なポイントは、物語上において、「こなかな」における『余命宣告』と、本作における「彗星の衝突」が果たす役割が全く同じだということです。
その働きとは、「幸せな生活を終わらせる区切り」の役割、ということになります。


健速氏が本当に描きたいのは「癌による個人の死」や「彗星による人類滅亡」ではないのでしょう。

『明確な区切り、終わりが見えている中で、残された日々をどう生きていくか』。
これこそ、両作におけるテーマだと思います。


(若くして)末期癌宣告ですとか、彗星による人類滅亡と聞かされると、めったにないような重大な悲劇を連想してしまいがちですが、これは本来ありふれたものです。
私たちは、いつかは死にます。
まず間違いなく、100年後に生きている人は(この文章を読んでいる人の中には)いないでしょう。
つまり、意識をしていないだけで、私たちは彼方や昴たちと同じ業を背負っているということになります。
これは作中でも、


『無限に生きる人間はいない。(略)。ではみんな、諦めて首を吊るのだろうか?
この世に生まれ落ちたその瞬間に。そんなことはない、絶対にだ』 ――ノーマルルート『エデンの東』――


と明示されていますね。


また、本来の死とは若干違いますが、「クラス替え」や「卒業」、「(遠方への)転居」、あるいは「離職」、「定年退職」といった、小さな『区切り(死)』は常に私たちの身近にあります。
無論、本当に死ぬわけではないので連絡を取り合う事はできるかもしれませんが、一つの区切りとなってしまうことは間違いありません。


これらの死を、より強調して描くために用意されたパーツ。
それが、「こなかな」における「癌」であり、「そし明日」における「彗星」なのだと思います。


終わりが見えてしまった今、これまで当たり前と思っていた「日常」のありがたみ、幸福に気づく。
どのルートでも、昴たちは「これまでの幸せな日常」を、滅びの時まで続けていくことを決意します。


本作「そして明日の世界より」とは彗星衝突の報によって一度は失われた当たり前の日常を取り戻す物語。
オープニングに表示される「二週間ばかりの例外の物語」とは、
日常が失われていた期間を指しています。


このような物語ですので、
人類の終末を襲うド迫力の大津波や、それに呑みこまれていくヒロインたちの姿といった手に汗握るアクションや、
必死の看病も実らずついに息絶える主人公と周囲の人々の涙といった、涙腺を直撃するようなシーンは基本的にありません。
作品テーマから大きく外れてしまうため、健速氏は「書かない」という選択をしたのでしょう。

それはそれで一つの選択だと思う一方で、プレイ後に僕が若干の物足りなさを感じたのは、こうした『派手な見せ場』が全くなかったから、と言えるかもしれません。


(「こなかな」をプレイした際は、なぜ最後まで書かないんだ!と憤った記憶があるのですが、そういう作品ではないんだな、と今回「そし明日」をプレイして初めて気づいた次第であります)。


★二つ目の事件――「避難シェルター」の持つ役割――


この作品において、昴たちを揺るがす大きな事件は二つだけです。
ここでは、二つめの事件である「避難シェルター入り」について書きます。


この「避難シェルター」が持つ役割もまた、「こなかな」の『クリスとの契約』と酷似しています。
つまり、「今いる世界と共に滅びゆく」か、「古い世界全てを捨てて、新しい世界で新たな生を歩むか」という選択が、主人公には突きつけられるのです。
ただし、「そし明日」では避難シェルターには誰も連れて行けないので、クリスと共に歩める「こなかな」とはそこが違うところです。


本来なら「避難シェルター入り」は、朗報のはず。
しかし、『今までの幸せな生活を取り戻す』という物語テーマとは逆行し、新たな障害のように機能しているのが面白いところで、よく考えて作られていると感じました。
この新たに生まれた葛藤こそが、昴が克服すべき最大の障害ということになります。


★ノーマルルート――唯一、「シェルターに行った可能性」の残るルート――

少し余談に入らせていただきます(余談がウザい人は次の★マークまで飛んでください)


全ルートで、昴は「島に残る」ことを明言します(青葉ルートではかなりあやふやな書き方でしたが……)。
しかし、例外が一つある……かもしれません。それは、本作において誰とも結ばれないノーマルルートです。
確かにこのルートでも、そこはかとなく昴が島に残ったような印象は受けます。
なので、「島に残った」と書いてしまっても良いのですが、せっかくなので昴たちのこの先を
少し妄想してみるのも一興かもしれません。



まずは、この一文。


『この物語もそろそろおしまいだ。この先は何も起こらないし、何も変わらない。誰だって自分を取り戻せばこうなるはずだ。』 ――ノーマルルート 『エデンの東』


この、「何も起こらない」という表現をどう受け止めるか。ここが鍵になるでしょうか。
素直に受け止めれば、昴はこのルートでも島に残ったと読めるでしょう。


ただし、この一文がなければ(あるいは気に留めなければ)、事態は全くわからなくなります。


「シェルターに行こうと思う」と話した昴に対し、竜はその決断を認めながらも、こう話します。


『だがな、だからといって焦って決めるんじゃないぞ。(略)。
選択肢が増えたからといって、新しい方だけを選ばなければいけない道理はない。同じように古い方に拘る必要もな』 ――ノーマルルート『灯台にて』


そしてそれに対応するように、

『「今日の続きの明日、明日の続きの明後日、その果てでもし必要なら俺はシェルターに行こうと思う。
逆に残る必要があったらここに残ろうと思う。」
俺にとってどちらが価値があるかは、これからの日々が決めてくれるだろう』。


という昴の台詞があります。ここから、この時点ではまだ昴はどうするかを決めていないことがわかります。


ただしその後に

『今後何か、俺がシェルターへ入る以上に俺達の存在を残す方法が見つかるかもしれない。
それでもし、そういったものが無ければそのときはシェルターにいくのも良いだろう。』

という文があり、この『俺達の存在を残す方法』が「温泉」のことを指すとするなら、やはり昴は島に残ったことになります。
しかしそうなると今度は、前述した「この先は何も起こらないし、何も変わらない。」という一文と矛盾をきたすことになるので、難しいところです。

温泉を掘り当てた、というのは「俺たちの存在を残す方法/シェルター行きを左右する重大なイベント」ではないというふうにも読めるからです。


Afterストーリーには、温泉を掘り当てた写真があり、日付は2006/08/25となっております。

彗星が衝突するのは10月。
そして、シェルターに入る人間は9月の段階でシェルターに行かなければならないという記述があります。
しかし、日付は8月25日です。
まだ9月ではないので、写真に昴が写っている=島に残った、
とはならないのも見逃せないポイントだと思います。


自分で書いていて、ちょっと苦しいなと思わなくもありませんw
やはり、「島に残った」方が物語としても美しいですし、そちらの可能性の方が高いと私も思います。

しかし、「どのルートでも島に残ってしまう」、「一つぐらいシェルターに行くルートがあっても良い」というご意見を、ネットでいくつか拝見したため、こういう可能性もあるよという意味でこの段落は書かせていただきました。


(なお、唯一と書きましたが、もちろん他ヒロインのエンディングに関しても
「ヒロインと付き合い始めた時は残ろうと思ったけど、やっぱ行くことにしたわ!」という可能性はゼロにはなりません。
9月までの1か月半で、まさかの破局があるかもしれませんしねw
ただ、作中に何の根拠もないので、その可能性は考えないこととします)



★健速主人公――「自己犠牲」という名の「他己犠牲」――

本題に戻ります。

健速氏の描く主人公には一つの特徴があります。それは、歪んだ形のエゴイストだということです。


「こなたよりかなたまで」の主人公は、大切な佳苗に「自分の死」を知らせ、傷つけたくないと思っています。
故に、「佳苗の愛を受け入れず、佳苗を遠ざけよう」とします。
しかし、それは佳苗の希望とは違います。


佳苗にとっては、「愛する彼方が何も言わず、変わっていくこと」の方が、より辛い。
彼方にとって自分は、そこまでどうでも良い人間なのだろうか?
自分の悩みを話し、分かち合うに値しない人間だと思われているのだろうか?
そんなふうに佳苗が悩んでいること、そういう形で佳苗を傷つけていることに、彼方は気がつきません。


自分への過小評価、そして、周囲への過小評価が、遥彼方にはありました。
この、健速主人公らしさは、本作の葦屋昴にも色濃く受け継がれています。


夕陽と昴の関係性を見ていきましょう。


★夕陽シナリオ――親離れできない子供と、子離れできない親――


本作における、最も歪んだ関係が昴と夕陽の関係だと僕は思います。
それは狂気の一歩手前と言い換えても良い。
こうした関係性を、「それでも綺麗に」描けてしまうあたりが、健速さんの長所であり、短所でもあるように思います。


親を亡くして以来、夕陽は隣家に住む昴に依存して今まで生きてきました。
容姿と同様、その振る舞いもまた高○三年生とは到底思えない、まるで小学生のまま成長が止まってしまったような印象を受けます。
そうした夕陽の振る舞いには、父である陽はもちろん、姉である朝陽、そして昴にもまた大きな責任があります。


「彗星衝突」という第一の報を聞いても、夕陽は取り乱しません。
『親』である昴が隣にいてくれるならば、怖いものはないのです。


しかし――昴がシェルターに行くという話を聞いた途端、夕陽は取り乱します。
余裕を完全に失くした彼女は、昴に「行くな」と言うのです。
それはつまり、「昴の生を喜ぶ」という態度ではなく、「私と一緒に死ね」というエゴを前面に押し出しているということになります。


その後、遅ればせながら自らの発言に気づいた夕陽は、昴からの自立を試み始めます。
しかし……ここからが恐ろしいのですが、今度は昴がそれを妨げようとします。
つまり、昴もまた夕陽に依存をしているのです。
「夕陽の面倒を見る」というひかりおばさんとの約束が、「夕陽に必要とされる自分でありたい」というエゴにすり替わっていることに、昴は気づかず、どんどん夕陽をダメにしてしまっている。


これは、一見「夕陽のため」の行動に映りますが、実際には「自分のため」の行動に他なりません。
一見「佳苗のため」の行動に映るけれども、実際には「自分のため」というこなかなの彼方とまるで同じ行動原理がここでも繰り返されています。


そんな夕陽と昴の共依存が、夕陽シナリオでは結果的に昴の命を奪ったといってもいいように思います。
一見綺麗なエンディングに思えますし、実際これはこれで一つの(歪んだ)愛のカタチとしてアリだと思うのですが、このシナリオは悲劇だと僕は感じました。


振り返れば、8年前のひかりおばさんの死。
このことに対応できなかった陽と朝陽のせいで、本来は幼馴染に過ぎなかった昴が狂い、それに縋るように夕陽は自立が出来ず。その結果、本来失われずとも良い命が失われた……というふうに読めるからです。


夕陽の育て方に対して昴(や朝陽)が適切に「反省」をするシーンが見当たらないことも、そんな「悲劇性」を強めています。
結果、「夕陽」も「昴」もほとんど成長していません。
「隣家の幼馴染に」依存をし合う関係から、「恋人同士として」お互いに依存をし合う関係に移り変わっただけのように思えます。


「もっと自分たちがしっかりしていれば」という反省は見えるのですが、そうではないでしょう。
もっと、夕陽の成長を導くように努力していれば、という反省こそが必要なのではないでしょうか。


今までの夕陽への教育方針を反省すべきところは反省する。
その上で、夕陽の自立を促すべく(必要があるなら)しばらく遠くから夕陽の成長を見守り、彼女の自立を待って、改めて「被保護者ではなく、一人の対等な女性として」愛を告白する。
といった流れを個人的には期待していました。
「Amaging Grace」の歌詞を最後まで覚えるといった、そんな程度の自立ではなく、ね。


ただ……それは、傍から見ている僕がそう思うだけであって、昴と夕陽の二人が幸せなら依存べったりでもいいのかもしれません。
成長なんてしなくても、三か月後には世界は滅びるのですから。


★ルートによって変わる夕陽の反応


話は変わりますが、夕陽の反応がルートによってまるで違うのが、個人的には解せないところです。
たとえば、「昴のシェルター行き」に対し、他のルートでは昴を祝福する夕陽。
しかし、夕陽ルートでは「一緒に死んでくれ」と発言するこの夕陽の変貌は、一体どこから来るのでしょうか?


昴と夕陽の依存関係は、どのルートでも変わりません。
これは、ゲームが始まる7月あたまの時点から始まった関係ではなく、もう八年間も続いてきた関係ですし、
実際どのルートでも夕陽は昴べったりです。
それなのに、どうしてこうも反応が変わってくるのでしょう?


また、青葉や御波を選んだ場合には平然としている夕陽が、朝陽を選んだ時にだけヒステリックな反応を見せるのも、(上述したシェルター行きの問題に比べれば些細なことですが)わかりづらいところです。


「青葉ちゃんや御波ちゃんと一緒になっても、私のことを見てくれるけれど、お姉ちゃんと一緒になったら、私の事を忘れてしまう」というのが、夕陽の言うもっともらしい理由になりますが、これは誤りだと僕は思います。
というのも青葉シナリオにおいて、昴と青葉がずっと見つめあったまま、夕陽の呼びかけに気づかないというシーンがあるからです。


別に朝陽が特別なのではなく、どのヒロインとくっついたって夕陽のことを忘れる瞬間は間違いなくあります
(まさかHしている最中にまで、夕陽のことを考えたりは普通しないでしょう)。
一方で、朝陽とくっついたとしても、夕陽のことを完全に忘れることはないでしょう。


なので、これは単に……「お姉ちゃんだけは許せない(姉だから? あるいは自分を庇護すると言っておきながら、昴とくっつくのは裏切りだから?)」という感情的な理由なのでしょう。
そんなワガママな夕陽を説得し、三人で幸せに暮らす朝陽エンドは、夕陽エンドに比べるととても読み口が良く、ハッピーエンドだと感じられる終わりでした。
多分にエロゲ的ご都合主義(ハーレム乙)はありますが、どうせ滅びる世界なのだし問題ないですよね。


なお、昴のエゴを、早々に見抜いたのは御波です。
御波シナリオの序盤でなされる「自分への過小評価・周囲の人の気持ちを考えない」という
昴への指摘は、実に的を射ていると思います。
もっともこの指摘は、昴よりもむしろ「こなかな」の彼方へのカウンターとして、より的確な気もするのですが……。


★ 青葉シナリオ


彗星落下そっちのけで、青葉という少女の本質を昴が見つける物語。


このシナリオでもまた、「こなかな」の素材が再利用されておりました。
一つは「演技とイメチェン」。

親しみやすく破天荒な吸血鬼を演じていたクリスが、服を着替え、穏やかな女の子としての素を彼方に見せるシーンが「こなかな」にはあります。
一方、本作でも「(昴が望むように)男勝りの親友」を演じていた青葉が、髪をおろし、より女の子らしい素の自分を見せる展開が用意されています。

ただ「こなかな」と違うのは、「過剰に女らしさを演出する」青葉というパートが付け加わっているところです。


つまり素の青葉が「男性性3:女性性7)」だとすると、
まず「昴の親友になる」ために「男性性8:女性性2」を演じた後、「彗星直撃の報」を受けた青葉は
「男性性0:女性性10」のキャラクターを演じて昴に迫るわけです。
そんな青葉を、昴は拒絶する。

「演技」の理由付けや、その流れは「こなかな」に比べて数段洗練されていたように感じます。


二つ目の共通点は「主人公が、周囲を遠ざけるためにそっけなく振る舞う」ということ。
遠からずいなくなる自分という境遇から、「こなかな」の彼方は佳苗を傷つけないために遠ざけようとします。
一方の昴は、「自分の傷を浅くするため」に周囲を遠ざけようとするのです。
比較すると、単なる焼き直しではなく新たなアレンジが加わっており、興味深いところです。


青葉シナリオの要点は、青葉が語る「王子様に会うために騎士となった、村娘の物語」に集約されています。


昴に恋をした青葉は、昴の求める「同性で何でも一緒にやってくれる親友」を演じます。
自らの男性性を強く押し出し、女性性を押し殺すことにしたのです。
念願かない、昴の親友というポジションを得た青葉でしたが、このままではいつになっても女性として見てもらえないことに気づきます。
押し殺された自らの女性性に苦しみ、彼の前で女性として振る舞いたいと願う自分を自覚する青葉。
いつの日か、昴の前に「女性」として現れる日を夢見て、海から化粧を習い、クローゼットに女性の服を蓄えています。
彗星が落下する前の時点で、その「計算違い」は既に明白だったのですが、この時点ではまだ先延ばしにすることができました。
しかし、三か月という期限が決められてしまった今、一刻も無駄に出来ないと決意した青葉は、今までとは正反対の方法……過剰なまでに女性性を演出することで昴の目を引こうとします。
しかし、昴は青葉の変化に戸惑い、彼の愛した「親友」がいなくなってしまったことを悲しむのでした。


個人的な意見を言えば、彗星落下前の段階で「化粧を習っている姿を目撃」したり、
「騎士となった村娘の話を青葉から直接聞いた」。
にも関わらず、妙な勘違いを続ける昴の思考がどうしても理解できませんでした。
率直に言って、バカではないか?と。


ただそれを差し引いてもなお、「自分」の在り方に戸惑い、悩み続ける青葉の不安定さとかわいらしさが印象深く、本作で一番気に入ったルート・ヒロインとなりました。
Hシーンも(特に2回目)意外に良かったです。


ところで、このルートではいつの間にか「昴がシェルターに行かない」ことになっていますが、
そんな描写はありましたっけ? 
ひょっとしたら見逃しているかもしれないのですが、特に該当シーンが見当たらないにも関わらず、
「葦屋が私を選んでシェルターにはいかないことにしたって、みんなに言っておいたよ」と青葉がいうシーンがあり、「えっ?そんな決断してたっけ?」と疑問に思いました。


★その他

点数は515/650。100点満点で84点。
これはかなり高い点数なのですが、絵やシステムがもっと高ければ更に上を目指せたという意味で、
惜しいと感じました。

まずはシステム。
2007年のゲームなので仕方ない部分はありますが、新しいゲームにはたいてい搭載されている
「クリックしても音声が継続するシステム」が未搭載。
音声のON/OFFも「ヒロイン勢」以外は全部「その他」に入れられてしまうアバウトさ
(個人的に、島の人の声はOFFで、じいちゃん・海・龍・陽の声はONにしたかった)。

誤字脱字が目につくレベルで多かったのも、マイナス要素です。


絵についても少し。


基本的にかわいらしい絵ではあるのですが、眼の描き方が独特だなと感じました。
たとえば、夕陽が驚いているシーンの立ち絵は瞳孔が開きすぎていて、まるでゾンビにでも出くわしたような顔に見えます。
また、御波の立ち絵の一つに、口元は笑っているのに目が笑っていないように見える立ち絵があって、これも一瞬ギョッとしました(そういう意図で使われた立ち絵ではなく、文章を読めば普通に笑っているはずのシーンです)。

更に、差分CGが少ないのもマイナスで、たとえば青葉が自宅で「ファッションショー」を開く場面
(青葉がたくさんの服を持っていることに、昴が気がつく大事なシーンです)に差分CGが用意されていないのは致命的でしょう。
文章でいくら表現されても、CGで着ている服が全く変わらないのですから……。

また、朝陽とのHシーンで、文中では「服を一枚一枚脱がしている」のに、CGでは最初っからおっぱい丸出しだったのも謎でした。
昔の……それこそ2002年頃のゲームでならわからなくもないですが、Hシーンの差分で服の脱着を用意していないなんて、ちょっと信じられないなと。


仮に絵とシステムが100点ならば、点数は580/650(93点)にまで上がることになります。
まぁ僕的には、この作品が93点かと聞かれるとそれはそれで首を捻ってしまうところで、
「85~87点ぐらい」というのが実際のお気に入り度ですね。


とはいえ、84点に終わってしまったのは絵とシステム、特に絵が足を引っ張ったせいだと思っています。


★総評

「彗星落下」という大事件から、今まで過ごしてきた日常の大切さを発見する本作は、
健速氏の手がけた作品
(「こなかな」、「キラークイーン&シークレットゲーム」、「遥かに仰ぎ、麗しの」、本作をプレイ)の中で、
一番のお気に入りになりました。

終わりがあるからこそ、輝くものがある。
昴とその周囲の織り成す暖かな雰囲気は、いつまでも心に残りそうです。

そういう意味では、(キャラクター性を軽視し)シナリオありきで牽引するシナリオゲーというよりは、
キャラクター同士の絆・人間関係を描いた、良い意味でのキャラゲーということができると思います。


「健速氏は本当にこれが書きたいんだなぁ」と感じさせられる力作である一方で、
「健速氏はこれしか書けないのかなぁ」と思わされるような作品でもあるのですが、
それはさておくとして、今は本作の世界観に浸りつつ筆を下ろしたいと思います。


長文を最後までお読みいただきありがとうございました。