83点。
『はるよこい』というタイトルの、有名な歌曲がある。
「はーるよ来い、はーやく来い」で有名な、童謡の『春よ来い』。
そして松任谷由美の『春よ、来い』。
(超有名な曲なので紹介する必要があるかはわからないが、一応貼っておく。
「春よ来い」
「春よ、来い」
本作が2つの『春よ、来い』に捧げられたオマージュであることは想像に難くない。
童謡の『春よ来い』は作中、夕刻を告げるチャイムに使われている事からも明らかだが、
それだけならば本作のタイトルは「はるまでくるる」だったはずだ。
本作のタイトル「はるまで、くるる」の読点「、」は、松任谷由美の「春よ、来い」へ向けたオマージュであることを示している。
童謡の『春よ来い』で歌われているのは、新しい生命が芽吹く春という季節への、瑞々しい期待感である。
透き通るような空の青、そして雪の白に彩られた冬の世界にも、徐々に春が近づいてくる。
『赤い鼻緒の下駄』を履いた『歩き始めた、みぃちゃん』や、『おうちの前の桃のつぼみ』が、
「早く外に出たい」、「早く咲きたい」と、今にも来そうな春を、胸躍らせて『待っている』。
既に桃の木はつぼみをつけているし、みいちゃんは今にも外に飛び出しそうな勢いで、
あしおとが聞こえるほどに、春は近づいている。
一方、松任谷由美の『春よ、来い』は、童謡の『春よ来い』に比べて『春』の距離感が明らかに遠い。
『春よ、遠き春よ』『春よ、まだ見ぬ春』というフレーズ。
『やがてやがて迎えに来る』、『ずっとずっと待っています』、『いつかいつかきっと届く』といった想い。
今はまだ冬真っ盛り、『春』はまだ、遠いものとなっている。
距離感を考えるに、本作の『春』は松任谷由美の『春』である。
それはまだ輪郭すら見えないほどに遠く、本当に来るのかと疑いたくなるほどの彼方。
本当に迎えに来るのか、いつか本当に春は訪れるのか。
春を待つ、気が遠くなるほど長い、永劫とも思われる物語が本作であるが、
ラスト、実際に春がやってきた時の主人公たちの行動は、まさに『おんも(お外)に出たいと待っていたみぃちゃん』そのものだ。
2つの童謡は繋がり、本作はハッピーエンドを迎えたのである。
さて、「春よ来い」においても「春よ、来い」においても、春とは『待つ』ものである。
自らが勝ち取るもの、掴みとるものではなく、迎えに行くものでもない。
お外に出たいみぃちゃんも、何やら大切な人と離ればなれになってしまったらしき「春よ、来い」の女性(?)も、
ただひたすら春を『待って』いる。
それは本作における主人公たちも同じである。
これは、『春』というものの特性上致し方ない面もあるのだが、基本的に主人公たちができるのは春を待つ、冬を凌ぐという『受け身』の行為でしかない点が、エンターテイメントとしては少々残念ではあった。
氷河期に包まれた地球の春を、ひたすら主人公たちは待ち続ける。
太陽が寿命を迎えるという絶体絶命の危機を切り抜けたのもまた、外部のコンピュータによるものであり、
主人公たちの努力ではない。
つまり主人公たちは、主体的に物事を進めて切り抜けていく立場ではなく、右往左往しながら冬が過ぎ去るのを必死に凌いでいるだけなのだ。
主人公たちが頑張った結果の末に春を『勝ち取る』という、そういう流れじゃないといけないとは思わないが、
AAという、まさに人類の救世主の降臨が6人を救うのではなく、
主人公たちの力でコンピュータを解読し、自らのアイディアで「宇宙船地球号」のアイディアを思いつく、ぐらいの事があっても良かったのではないだろうか。
実際に地球を救うのはAAでも良いが、もう少し人類救済のために6人それぞれが活躍してほしかったというのが本心だった。
ゲームを初めてすぐに思ったのは、『クロスチャンネル』そっくりだなということ。
これは最後までプレイすれば、別物だとわかるのだが、
『ループ』や『狂気』、『人のいない街』といった要素から、初見では本当にそっくりだと思った。
また、思わせぶりな悪役くさい人々の台詞(実際には悪役ではないのだが)から、
『ループ=狂気の人々を集めての人体実験』であるという予測は簡単についてしまう。
この、簡単についてしまうというのはある意味曲者だ。
何せわかりやすすぎるぐらい、わかりやすいため、逆に引っかからないのだ。
『人体実験』なわけないでしょ、もしそうなら見え見えすぎてクソゲーとしか言えない。
そう思って読んでいたので、真相を知った時も、そこまでの驚きがなかったのは残念だった。
これが現実なら、どう見ても犯人にしか見えない怪しすぎる容疑者が、実は無罪だったとわかれば驚くだろう。
しかし、ミステリにおいて怪しすぎる容疑者が、実は無罪だったとわかっても、
サプライズにはならないのである。怪しい容疑者がそのまま犯人だった方がむしろ驚くかもしれない。
それと同じで、「人体実験ですよー狂気の隔離空間ですよー」との示唆が過剰すぎたためもあって、
最初の春海、2番目の秋桜のルートあたりまではさほど面白さを感じなかった。
しかし真相が明かされる次の冬音ルートは俄然面白かった。
ハッタリと言えばハッタリなのだが、このスケールの大きなハッタリにはやはり驚く。
不老不死のベニクラゲや、氷河期の説明のくだりも圧巻で、ここまで読んできて良かったと思ったものだ。
ただ、そこから先の宇宙船地球号については、前述のとおりそこまでの面白さはなく、シナリオゲーとしての楽しみは冬音ルートがピークだった。
長い時間を共に過ごす中で、登場人物間に結ばれる絆もまたループものの醍醐味の一つ。
本作で描かれる永遠に続く春休み、悪夢と終末のハーレムを振り返れば、
恐ろしくもあり、羨ましくも感じられた。
特に陰鬱さや狂気が垣間見えるテキストにおいて、冬音のしょうもないギャグには何度も笑わされた。
本作で一番好きなヒロインもこの冬音である。
下ネタがややキツいのと、ゲーム最序盤になぜかややハードめのHシーンが連発で来るので、
上品なシナリオゲーマーの方は嫌気がさして投げてしまうかもしれないが、
そこはグッと堪えてプレイすれば、なかなか面白いSFが広がっている……んだけど、
Hシーンはなんならスキップしていただければ良いとしても、下ネタの方が合わないと厳しいかもしれませんね。
次の「なつくもゆるる」も気になりますが……どうしようかなぁ。
『はるよこい』というタイトルの、有名な歌曲がある。
「はーるよ来い、はーやく来い」で有名な、童謡の『春よ来い』。
そして松任谷由美の『春よ、来い』。
(超有名な曲なので紹介する必要があるかはわからないが、一応貼っておく。
「春よ来い」
「春よ、来い」
本作が2つの『春よ、来い』に捧げられたオマージュであることは想像に難くない。
童謡の『春よ来い』は作中、夕刻を告げるチャイムに使われている事からも明らかだが、
それだけならば本作のタイトルは「はるまでくるる」だったはずだ。
本作のタイトル「はるまで、くるる」の読点「、」は、松任谷由美の「春よ、来い」へ向けたオマージュであることを示している。
童謡の『春よ来い』で歌われているのは、新しい生命が芽吹く春という季節への、瑞々しい期待感である。
透き通るような空の青、そして雪の白に彩られた冬の世界にも、徐々に春が近づいてくる。
『赤い鼻緒の下駄』を履いた『歩き始めた、みぃちゃん』や、『おうちの前の桃のつぼみ』が、
「早く外に出たい」、「早く咲きたい」と、今にも来そうな春を、胸躍らせて『待っている』。
既に桃の木はつぼみをつけているし、みいちゃんは今にも外に飛び出しそうな勢いで、
あしおとが聞こえるほどに、春は近づいている。
一方、松任谷由美の『春よ、来い』は、童謡の『春よ来い』に比べて『春』の距離感が明らかに遠い。
『春よ、遠き春よ』『春よ、まだ見ぬ春』というフレーズ。
『やがてやがて迎えに来る』、『ずっとずっと待っています』、『いつかいつかきっと届く』といった想い。
今はまだ冬真っ盛り、『春』はまだ、遠いものとなっている。
距離感を考えるに、本作の『春』は松任谷由美の『春』である。
それはまだ輪郭すら見えないほどに遠く、本当に来るのかと疑いたくなるほどの彼方。
本当に迎えに来るのか、いつか本当に春は訪れるのか。
春を待つ、気が遠くなるほど長い、永劫とも思われる物語が本作であるが、
ラスト、実際に春がやってきた時の主人公たちの行動は、まさに『おんも(お外)に出たいと待っていたみぃちゃん』そのものだ。
2つの童謡は繋がり、本作はハッピーエンドを迎えたのである。
さて、「春よ来い」においても「春よ、来い」においても、春とは『待つ』ものである。
自らが勝ち取るもの、掴みとるものではなく、迎えに行くものでもない。
お外に出たいみぃちゃんも、何やら大切な人と離ればなれになってしまったらしき「春よ、来い」の女性(?)も、
ただひたすら春を『待って』いる。
それは本作における主人公たちも同じである。
これは、『春』というものの特性上致し方ない面もあるのだが、基本的に主人公たちができるのは春を待つ、冬を凌ぐという『受け身』の行為でしかない点が、エンターテイメントとしては少々残念ではあった。
氷河期に包まれた地球の春を、ひたすら主人公たちは待ち続ける。
太陽が寿命を迎えるという絶体絶命の危機を切り抜けたのもまた、外部のコンピュータによるものであり、
主人公たちの努力ではない。
つまり主人公たちは、主体的に物事を進めて切り抜けていく立場ではなく、右往左往しながら冬が過ぎ去るのを必死に凌いでいるだけなのだ。
主人公たちが頑張った結果の末に春を『勝ち取る』という、そういう流れじゃないといけないとは思わないが、
AAという、まさに人類の救世主の降臨が6人を救うのではなく、
主人公たちの力でコンピュータを解読し、自らのアイディアで「宇宙船地球号」のアイディアを思いつく、ぐらいの事があっても良かったのではないだろうか。
実際に地球を救うのはAAでも良いが、もう少し人類救済のために6人それぞれが活躍してほしかったというのが本心だった。
ゲームを初めてすぐに思ったのは、『クロスチャンネル』そっくりだなということ。
これは最後までプレイすれば、別物だとわかるのだが、
『ループ』や『狂気』、『人のいない街』といった要素から、初見では本当にそっくりだと思った。
また、思わせぶりな悪役くさい人々の台詞(実際には悪役ではないのだが)から、
『ループ=狂気の人々を集めての人体実験』であるという予測は簡単についてしまう。
この、簡単についてしまうというのはある意味曲者だ。
何せわかりやすすぎるぐらい、わかりやすいため、逆に引っかからないのだ。
『人体実験』なわけないでしょ、もしそうなら見え見えすぎてクソゲーとしか言えない。
そう思って読んでいたので、真相を知った時も、そこまでの驚きがなかったのは残念だった。
これが現実なら、どう見ても犯人にしか見えない怪しすぎる容疑者が、実は無罪だったとわかれば驚くだろう。
しかし、ミステリにおいて怪しすぎる容疑者が、実は無罪だったとわかっても、
サプライズにはならないのである。怪しい容疑者がそのまま犯人だった方がむしろ驚くかもしれない。
それと同じで、「人体実験ですよー狂気の隔離空間ですよー」との示唆が過剰すぎたためもあって、
最初の春海、2番目の秋桜のルートあたりまではさほど面白さを感じなかった。
しかし真相が明かされる次の冬音ルートは俄然面白かった。
ハッタリと言えばハッタリなのだが、このスケールの大きなハッタリにはやはり驚く。
不老不死のベニクラゲや、氷河期の説明のくだりも圧巻で、ここまで読んできて良かったと思ったものだ。
ただ、そこから先の宇宙船地球号については、前述のとおりそこまでの面白さはなく、シナリオゲーとしての楽しみは冬音ルートがピークだった。
長い時間を共に過ごす中で、登場人物間に結ばれる絆もまたループものの醍醐味の一つ。
本作で描かれる永遠に続く春休み、悪夢と終末のハーレムを振り返れば、
恐ろしくもあり、羨ましくも感じられた。
特に陰鬱さや狂気が垣間見えるテキストにおいて、冬音のしょうもないギャグには何度も笑わされた。
本作で一番好きなヒロインもこの冬音である。
下ネタがややキツいのと、ゲーム最序盤になぜかややハードめのHシーンが連発で来るので、
上品なシナリオゲーマーの方は嫌気がさして投げてしまうかもしれないが、
そこはグッと堪えてプレイすれば、なかなか面白いSFが広がっている……んだけど、
Hシーンはなんならスキップしていただければ良いとしても、下ネタの方が合わないと厳しいかもしれませんね。
次の「なつくもゆるる」も気になりますが……どうしようかなぁ。