社会派作品を読むと、いつも心がざわついてしまう。
凄惨な現実を知り不安になっても、どうすることもできない。あるいは胸の中が怒りでいっぱいになったとしても、社会を変える事などできはしない。
私には関係ない事だ、と切り離すには身近すぎるし、どうせ関係がないならば楽しい話を読みたいと思う。
現代に近い時代の、日本の物語なら猶更だ。
けれどきっと、社会にはこういう作品が必要なのだ。と、言ってみてもやはり釈然としない。もちろん、子供にとっては必要だと思う。
悪い事をしないように、危ないところに近づかないように、そういう注意喚起のために。
けれどある程度の知識を蓄えた大人にとって、必要なのかと聞かれると、私にはやはりよくわからない。
新聞やテレビのニュース、特にショッキングな殺人事件について知らないと、何か問題が生じるだろうか? スポーツのニュースなど、本当にいい迷惑だ。大好きなスポーツの結果をバラされたくないばかりに、出勤前に徹夜しなければならない。知りたい人は自分で調べればいいではないか。芸能人がどうしたとか、そんなのもどうでもいい。
僕が知りたいのはお天気情報と道路交通情報くらいだ。
通り魔事件が発生したとして、それを知っていれば防げるというものでもないだろう。
生活のために外に出ればやはり通り魔に遭ってしまう可能性はあるし、なけなしの防犯グッズを使いこなし、護身術を習いに道場に通っても、結局何も起こらなかったりするのだ(その方が良い)。
犯人の実像に迫ったって、大抵そこには犯人の破滅の物語があるだけで、犯人への憎しみを駆り立てられるか、犯人への同情を駆り立てられるかどちらかであり、そこに救いはない。
「理由」はヴァンダール千住北ニューシティという超高層マンションで起きた一家殺人事件の物語だ。細部まで行き届いたマンションの規則や
事件リポーターのような独特な文体で、まるでノンフィクションのルポルタージュと見紛う、迫真のフィクション小説である。
実際にこういうマンションが存在してそのまま規則を持ってきたのか、ある程度の材料を元に宮部さんが創作したのかはわからないが、高層マンションに住む人々の息遣いが聞こえてくる、そんな作品だ。この文体に触れられただけで、個人的には読んだ価値があった。
しかしこの作品もまた、社会派の例にもれず読んで心が晴れるとは言いがたい。殊に、キャラクターの大半が結婚生活に絶望を抱き、家庭で孤立している有様など、暗澹たる思いがしてしまう。
私は結婚したい、と思いつつきっとできないだろうと考えている人間なのだが、こんな結婚生活ばかりを読まされた日には、結婚なんて愚か者の選択だと感じずにはいられない。
嬉しい・楽しい・好きといった感情や、数々の思い出を共に分かち合い、手を取り合い、お互いの不足を補いあえるパートナーと共に暮らせれば、こんなに素敵な事はないよなぁと思うのだが、どうも「理由」を読んでいると、いや、読まずともわかるが、世間の多くの家庭はそんなに甘いモノではないらしい。
姑がどうのプライドがどうの見栄がどうのと、私からすると本当にくだらない事ばかりにエネルギーとお金を使い、破産してしまったり、もっと酷いときには自殺してしまう人が後を絶たないようだ。殊にこの作品の小糸夫妻など、個人的には犯人よりもよほど腹立たしく、胸がざわついてしまう。
しかしそれだけならまだいいのだ。もっと困るのが、小糸夫妻のようないわゆる厭な役回りのキャラクターだけでなく、もっとごく普通の、たとえば片倉信子のような「厭な役回りではないであろう」キャラクターも含めて、ほとんどのキャラクターが好きになれない。また、小糸夫妻は極端にしても、恐らく現実社会にもこのような人々はたくさんいるだろう、と感じてしまうと、人間社会がたまらなく厭になってしまう。
格好やら見栄やらなど気にせず暮らせればお金だって大してかからないかもしれないし、週40時間+αもあくせく働かずに暮らせる気がするし、その分の時間を趣味なり交友なりに充てた方がよほど幸福になれると思うけれど。現実問題としてダッサダサのパジャマにサンダルやら、ボロボロに着古した古服で交友の場に向かえばモテるどころか、奇異の視線に出迎えられ相手にされないのがオチだろう。
スーツにネクタイなど首周りは息苦しいし身体がこわばる無駄に疲れる服を日常的に着て、格好をつけるのが人間社会の多数であり、「パジャマの方が身体が楽で疲れにくいから、仕事もはかどりますよ」などと言ったって、結局誰にも相手にされないのは目に見えている。
だから仕方なくまともな人間を装うこの無駄かつ不毛な営みを、これからもずっと続けていくのだなぁ、などと考える。
互いに相手のステータスを図って、自分よりも劣った人間を見下すのが大好きな人間界で生きるには、こちらも見栄を張りとおすか、散々バカにされても気にせず襤褸を着るか、はたまた引きこもりの世捨て人にでもなるか。しかしいずれも満足にできない私は、中途半端に見栄を張り、中途半端にバカにされ、中途半端に引きこもって生きるのである。できれば、私などと付き合うパートナーがいるとすれば、あまり見栄を張らない人を望みたいし、そういう人としか暮らせない気がする。
見栄張り競争がエスカレートして、止められなくなったのが小糸一家だと思うと、なんだか途方もなく虚しい気持ちになってしまう。
人間の欲は止めどないものなのだから、贅沢など知らない方が賢明だと感じるし、どうせ世界で一番贅沢な人間になどなれないのだから、お隣の〇〇さんや友達の××くん、あるいは社内の同僚と優劣を争ったって無駄でしかなく、くだらなく感じてしまう。
人間社会を生きづらくしているのは人間自身。
それも本当に邪悪な人間ではなく、ごく普通に暮らしている人たち、私もきっと持っているであろう「くだらなさ」の塊が、自他問わず人を窒息させていく。
その事にただただ絶望してしまうのだ。
結局のところ、こんな私は独りぼっちで生きる方が楽なのかもしれないが、それではあまりにも寂しく、しかし何かの幸運で結婚などしても「理由」に出てくる夫婦のようになってしまうのでは、それは幸運ではなく不運でしかない。
夫婦間で見下したり見下されたり、何というバカバカしさであろうか。
嗚呼、厭だなぁと思い、布団の中で本をめくりながら、もうこの手の話は読むまいと思う。私はお花畑の中で生きたい。
月光に照らされた花畑に寝転んで、月明かりを頼りに本が読めればそれでいい。手元にはイチゴの載ったショートケーキと紅茶。それが贅沢ならいっそ飲料水だけで良い。問題ない。
もう、俗な世間で生きるのは疲れてしまった。
大した事はしていないのに何故か女性にモテモテでハーレムを作っちゃう話でも読んで、ずっとそんな妄想に浸って人生を過ごせれば、それが一番楽しいような気がする。
それは傍目には気持ち悪い男かもしれないが、楽しく妄想に耽っている人間を捕まえて気持ち悪いのなんだのと指摘する人間とは関わりたくない。
どこまでも作り物の優しい世界に浸りきって、ただ眠り続けたいというのが本音だったりするのだ。
社会派小説などを読むと、いつもこんなふうに嫌気が差してしまう。とにかく、生きている事が、この世界が、果てしなく嫌になる。こういった作品の感想などを読んでも、やれ××という登場人物が気持ち悪い、やれ〇〇が嫌いだ、と粗探しばかりをしたり、嗚呼もうこんな世界は嫌だ厭だと病み爛れた毒素に触れて読者まで厭な気持ちになるわけで、一向に優しく暖かく朗らかな気持ちになることはない。
だからもう当分は読むまいと思うし実際読みたくないのだが、なぜ私の手元には「模倣犯」などという小説があるのか理解に苦しむ。
ツンデレやフリではなく、本当に社会派小説は好きではないのに。