まずはコメントありがとうございます。
先週月曜日に歯の詰め物が取れたことから始まって、祖母の死や、1年ほど通話で繋がっていた友だちとの喧嘩別れなど、なかなかヘヴィな10日間でしたが、
少なくとも発病直後の脳に綿が詰まったような激鬱ではないので大丈夫です。
むしろ、1か月後に迫った誕生日の方が鬱ですね。
世界には「自分探し」だとか「生きる意味」だとか、そういった言葉があります。
大体思春期頃に真剣に考えて、大抵の人は大人になると見つけてしまうのか、
それとも「そんな事考えても仕方がない」と日々の生活に汲々としてうっちゃってしまうのかはわかりませんが、大体そんなようなやつです。
僕にとって、「自分探し」というものは最初から必要ありませんでした。
何故なら発達障害を抱えていることもあって、そもそも「自分」が強すぎるからでした。
社会不適合者と言い換えてもいいと思いますが、そもそも社会に合わせる気が全くありませんでした。
僕の知っている社会は、小学校で、僕をいじめていた社会でした。
そして同じ時期、習い事では僕はいじめられず、違う、もっと弱い子がいじめられていました。
それが僕にとっての「『狭い』社会」でした。
こんな社会に合わせるのもバカらしいと感じていましたし、大人になっていじめられなくなった今も、
根っこは変わりません。
全世界の富を大体公平に分配すれば、貧困問題も解消されるのに、ごく一部の人間が富を独占し、
別の場所では餓死する人間が出る。
僕は歴史が好きなので、人間の愚かさというものをある程度知っています。
ネットの、特に治安が悪いところを見れば、気持ちの悪い、頭のおかしな人がたくさんいます。
(別に自分が高潔だというわけではなく、そんな人間という種である、自分自身の醜さについても自覚はしています)
さて、そんな社会が作ったルールを下らないと考えている人間なので、当然流行にも興味はありませんし、結局自分が作ったルールを守り、
自分の『センス・美意識』で良いと思った事をするというのが自分の行動原理になります。
いわば、『異邦人(カミュ的な意味で)』なので、「個性」だとかそういったもので悩むことはありませんでした。
一方の「生きる意味」はどうでしょう。
こちらは、簡単に言いきる事は出来ません。
ただ、僕には二つの願望があります。
それは、A『楽しい時間をなるべく長く生きる事
(自分にとっての人生の宝物を、なるべくたくさん収拾する事)』と、
B『(自分を偽らずに)何かポジティブなものを相手に伝え、後世(と言っても死後10年とかかもしれませんが)残す事』です。
僕は、昭和の価値観である「結婚して子供を残す」といった幸せのカタチに逃げ込む事はできません。
なぜなら、「こんなクソみたいな世界」に、「クソみたいな人間」を再生産して、何が楽しいのか本気でわからないからです。
だから、何も頭を使わずに昭和の価値観で「どうして子供が欲しくないの?」と聞かれると、
「どうして子供が欲しいんですか?」と質問を返したくなります。
子供はかわいい? そうかもしれません。でもかわいいのは、小さいうちだけでしょう?
それとも老後の面倒を子供に見てもらうつもりでしょうか。
子供という形で、自分を後世に遺すことができるからでしょうか?
確かにB「何かポジティブなものを遺す」ことができるかもしれませんが、子供は親である僕の持ち物ではありませんし、それ以前にネガティブなものを遺す可能性の方が高そうです。
Aについては説明不要な気はします。誰だって楽しい時間が長い方が嬉しいと思います。
さて、翻って僕が楽しいと感じていたのは、中学2・3年、予備校時代、大学1~3年、それから簿記の勉強をしていた半年間です。
予備校時代は例外ですが、他の期間はどれも「気の置けない友だちグループに囲まれて、わいわいやっていた」時期です。
つまり、僕にとっては「友だちグループに囲まれて、日々を暮らす」事が幸せなのだと思います。
しかし僕はいわゆる変人ですし、大人になるとなかなかそういう機会が減ってくるのが残念ではあります。
また、幸せとは別に、他人との交流は自分の世界を拡げてくれるので、
大人になって友だちがほぼ皆無の今の自分は、それを切実に望んでいます。
ただ問題なのは、人間の好き嫌いは激しいので、「誰でもいいから誰かとつるみたい」願望はありません。というよりこの世に生きる人間の7割は、僕にとってくだらない人間ですから。
(向こうもきっとそう思っている事でしょう)。
だから、わかりあえる3割の人間との交わりを深くしたいというのが願望です。
この夢はかなうのでしょうか。不可能ではないと思いますが、難しいですね。
もう一つ、「他人との交流」ほどではありませんが、「心を打つ物語・音楽』などに出会う事も幸せのカタチ(人生の宝物)ですし、こちらに関してはぼっちインドア趣味でもある程度は達成できていると思います。
B『(自分を偽らずに)何かポジティブなものを相手に伝え、後世(と言っても死後10年とかかもしれませんが)残す事』について。
これは、僕にとっては本当に何でも良いのです。
一時期彼女がいたときは、彼女の記憶の中に自分が残ればそれでいいと思っていました。
まぁ、それはおいといて、今の自分にとっては「文章」ということになりますし、
その究極の形は、今現在の自分にとっては『自作小説』ということになります。
自分で書いていても自己欺瞞めいていると思いますが、画家には死後評価された方がたくさんいますし、文学でも宮沢賢治さんやエミリー・ブロンテなどはそうです。
だから、僕が書いた小説が、死後にでも読まれ、読んだ少数の人にポジティブな影響を与えられればいいなと思っています。
が、小説は著しく体力を消耗するので最近ずっとサボっています。
残響さんは、音楽活動に漫画執筆など旺盛に活動されていて、個人的にはとてもリスペクトしています。
小説の代替として、小説感想、ゲーム(できれば物語性の強いもの)感想があります。
これは自作小説執筆に比べれば充実感は3割程度ですが、労力は1割未満です。
今の自分は小説を読み、その感想文を書くことで、自作小説へのエネルギーを貯めつつ、Bの活動を消極的に行なっているところです。
ちなみに、中断中の小説は絶対に完成させます。
僕は、「いつ死んでもいい」「死にたい」と思っているうつ病患者ですが、今は死ねません。
少なくとも2年前に前半部を書いた(まだネットには公開していない)、
主人公の少女システィーナの生涯を描き終わるまでは、死んでも死にきれないので、これだけは絶対に書きます。
そしてそれを書いたら、また次の題材・次の夢を探すという感じでしょうか。
僕にとっては小説は「魂を削り、自分の内面を抉っていき」、
それを「読者が読みやすく彫琢していく」作業でもあるので、こればかりはぽんぽん多筆できないのです。
だからきっと職業作家には一生なれませんね。そんな年間何冊も書けませんもんw
でもそれでいいのです。
僕が目指すのは、宮沢賢治であり、エミリー・ブロンテですし、突き詰めれば『人生とは自己満足』に他ならないのですから。
と、たまにはこんなシリアス風味な記事も書いてみましたが、
そんなことよりも、今読んでいるカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」がマジ名作なので、
読書生活は充実しています。
こんな小説、生涯に一作でいいから書いてから死にてぇなぁ……
先週月曜日に歯の詰め物が取れたことから始まって、祖母の死や、1年ほど通話で繋がっていた友だちとの喧嘩別れなど、なかなかヘヴィな10日間でしたが、
少なくとも発病直後の脳に綿が詰まったような激鬱ではないので大丈夫です。
むしろ、1か月後に迫った誕生日の方が鬱ですね。
世界には「自分探し」だとか「生きる意味」だとか、そういった言葉があります。
大体思春期頃に真剣に考えて、大抵の人は大人になると見つけてしまうのか、
それとも「そんな事考えても仕方がない」と日々の生活に汲々としてうっちゃってしまうのかはわかりませんが、大体そんなようなやつです。
僕にとって、「自分探し」というものは最初から必要ありませんでした。
何故なら発達障害を抱えていることもあって、そもそも「自分」が強すぎるからでした。
社会不適合者と言い換えてもいいと思いますが、そもそも社会に合わせる気が全くありませんでした。
僕の知っている社会は、小学校で、僕をいじめていた社会でした。
そして同じ時期、習い事では僕はいじめられず、違う、もっと弱い子がいじめられていました。
それが僕にとっての「『狭い』社会」でした。
こんな社会に合わせるのもバカらしいと感じていましたし、大人になっていじめられなくなった今も、
根っこは変わりません。
全世界の富を大体公平に分配すれば、貧困問題も解消されるのに、ごく一部の人間が富を独占し、
別の場所では餓死する人間が出る。
僕は歴史が好きなので、人間の愚かさというものをある程度知っています。
ネットの、特に治安が悪いところを見れば、気持ちの悪い、頭のおかしな人がたくさんいます。
(別に自分が高潔だというわけではなく、そんな人間という種である、自分自身の醜さについても自覚はしています)
さて、そんな社会が作ったルールを下らないと考えている人間なので、当然流行にも興味はありませんし、結局自分が作ったルールを守り、
自分の『センス・美意識』で良いと思った事をするというのが自分の行動原理になります。
いわば、『異邦人(カミュ的な意味で)』なので、「個性」だとかそういったもので悩むことはありませんでした。
一方の「生きる意味」はどうでしょう。
こちらは、簡単に言いきる事は出来ません。
ただ、僕には二つの願望があります。
それは、A『楽しい時間をなるべく長く生きる事
(自分にとっての人生の宝物を、なるべくたくさん収拾する事)』と、
B『(自分を偽らずに)何かポジティブなものを相手に伝え、後世(と言っても死後10年とかかもしれませんが)残す事』です。
僕は、昭和の価値観である「結婚して子供を残す」といった幸せのカタチに逃げ込む事はできません。
なぜなら、「こんなクソみたいな世界」に、「クソみたいな人間」を再生産して、何が楽しいのか本気でわからないからです。
だから、何も頭を使わずに昭和の価値観で「どうして子供が欲しくないの?」と聞かれると、
「どうして子供が欲しいんですか?」と質問を返したくなります。
子供はかわいい? そうかもしれません。でもかわいいのは、小さいうちだけでしょう?
それとも老後の面倒を子供に見てもらうつもりでしょうか。
子供という形で、自分を後世に遺すことができるからでしょうか?
確かにB「何かポジティブなものを遺す」ことができるかもしれませんが、子供は親である僕の持ち物ではありませんし、それ以前にネガティブなものを遺す可能性の方が高そうです。
Aについては説明不要な気はします。誰だって楽しい時間が長い方が嬉しいと思います。
さて、翻って僕が楽しいと感じていたのは、中学2・3年、予備校時代、大学1~3年、それから簿記の勉強をしていた半年間です。
予備校時代は例外ですが、他の期間はどれも「気の置けない友だちグループに囲まれて、わいわいやっていた」時期です。
つまり、僕にとっては「友だちグループに囲まれて、日々を暮らす」事が幸せなのだと思います。
しかし僕はいわゆる変人ですし、大人になるとなかなかそういう機会が減ってくるのが残念ではあります。
また、幸せとは別に、他人との交流は自分の世界を拡げてくれるので、
大人になって友だちがほぼ皆無の今の自分は、それを切実に望んでいます。
ただ問題なのは、人間の好き嫌いは激しいので、「誰でもいいから誰かとつるみたい」願望はありません。というよりこの世に生きる人間の7割は、僕にとってくだらない人間ですから。
(向こうもきっとそう思っている事でしょう)。
だから、わかりあえる3割の人間との交わりを深くしたいというのが願望です。
この夢はかなうのでしょうか。不可能ではないと思いますが、難しいですね。
もう一つ、「他人との交流」ほどではありませんが、「心を打つ物語・音楽』などに出会う事も幸せのカタチ(人生の宝物)ですし、こちらに関してはぼっちインドア趣味でもある程度は達成できていると思います。
B『(自分を偽らずに)何かポジティブなものを相手に伝え、後世(と言っても死後10年とかかもしれませんが)残す事』について。
これは、僕にとっては本当に何でも良いのです。
一時期彼女がいたときは、彼女の記憶の中に自分が残ればそれでいいと思っていました。
まぁ、それはおいといて、今の自分にとっては「文章」ということになりますし、
その究極の形は、今現在の自分にとっては『自作小説』ということになります。
自分で書いていても自己欺瞞めいていると思いますが、画家には死後評価された方がたくさんいますし、文学でも宮沢賢治さんやエミリー・ブロンテなどはそうです。
だから、僕が書いた小説が、死後にでも読まれ、読んだ少数の人にポジティブな影響を与えられればいいなと思っています。
が、小説は著しく体力を消耗するので最近ずっとサボっています。
残響さんは、音楽活動に漫画執筆など旺盛に活動されていて、個人的にはとてもリスペクトしています。
小説の代替として、小説感想、ゲーム(できれば物語性の強いもの)感想があります。
これは自作小説執筆に比べれば充実感は3割程度ですが、労力は1割未満です。
今の自分は小説を読み、その感想文を書くことで、自作小説へのエネルギーを貯めつつ、Bの活動を消極的に行なっているところです。
ちなみに、中断中の小説は絶対に完成させます。
僕は、「いつ死んでもいい」「死にたい」と思っているうつ病患者ですが、今は死ねません。
少なくとも2年前に前半部を書いた(まだネットには公開していない)、
主人公の少女システィーナの生涯を描き終わるまでは、死んでも死にきれないので、これだけは絶対に書きます。
そしてそれを書いたら、また次の題材・次の夢を探すという感じでしょうか。
僕にとっては小説は「魂を削り、自分の内面を抉っていき」、
それを「読者が読みやすく彫琢していく」作業でもあるので、こればかりはぽんぽん多筆できないのです。
だからきっと職業作家には一生なれませんね。そんな年間何冊も書けませんもんw
でもそれでいいのです。
僕が目指すのは、宮沢賢治であり、エミリー・ブロンテですし、突き詰めれば『人生とは自己満足』に他ならないのですから。
と、たまにはこんなシリアス風味な記事も書いてみましたが、
そんなことよりも、今読んでいるカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」がマジ名作なので、
読書生活は充実しています。
こんな小説、生涯に一作でいいから書いてから死にてぇなぁ……
コメントレスを、わざわざ記事にしてくださってありがとうございます。
同じテーマを、考えたことがあります。
思考の道筋は、大筋において私も似ていました。一方で異なっている部分も何点かございます。
もちろんそれは、お互いの個性(人格)が違う以上、当然そうなりますよね。
ただ、お話を「凄く理解出来た」ということは申させてください。
以前、feeさんが自作小説を私に「読んでください」とお頼みされた時、私は断った……正確には少し読んでそれ以上読めなかった……と返してしまいました。
あれは酷い返し方だったな、と今思います。
当時、自分は「物語(小説)」というものに対し、極めて混乱状態にありました。
「物語」というものを自分の中で受け入れられず、軽くサラっとでも読むことが出来なかったのです。
feeさんが「物語」というものに対して強い思いを抱いておられること、まして自作小説という「強い思い」の形そのものをお作りになられたこと。
その強い感情を、私は知っていたにも関わらず、当時の私は拒絶をしてしまいました。
自分の状態がどうあれ、申し訳ないことをしたと思っています。ごめんなさい。
魂を削り、自分の内奥を見つめて、ひとつの芸術を作る。そうやって、ご自身の生に確信を持ちたいと希求される。
素晴らしいと思います。その希求、物語に対する信頼。私もそうありたかった、とすら思います。
どうか、物語に対する愛を失わないで、大切になさってください。
こう私が申さなくても、feeさんの物語愛は消えることはないでしょうが、それでもどんなに大切にしても損はないほどの、立派な愛だと思うのです。feeさんの物語愛は。
その物語愛が、やがてfeeさんを暖かく救うことを望みます。すでにカズオ・イシグロの小説で救われていらっしゃいますが、もっともっと、物語の暖かさは深まっていくことでしょう。