前置き

<rule:number>
 <i:いろいろと知ったかぶりをしますが、間違っているところは多々あると思います>
 <i:「ハーモニー」内の文体を真似して書いていますが、筆者は英語は不如意です。ましてプログラム言語など全く分かりません>
</rule>

脳と身体の主従関係

「こころ・魂・意識」。

肉体という不便な檻の中で、その道具を操っていく『脳』。
人の『意識』は『脳』から生まれ、老朽化していく肉体という道具を動かし、目的を達しようとする。

<list:item>
 <i:刺激が欲しい>
 <i:充実感が欲しい>
 <i:皆に尊敬されたい>
 <i:安らぎが欲しい>
 </list>

<question>
 美味しいものを食べる? ステーキ? ラーメン? フレンチ料理?
 ライブに行く? スポーツ観戦? バンジージャンプ?
 風俗店に行く? コスチュームプレイ? 初めての土地への旅行?
 本を読む? 映画を見る? ドラマを見る? オーディションを受ける?
 やりがいのある仕事をする? 子育てをする? 
 趣味のサークルに参加する?
 陸上部の大会で全国大会優勝する?
 炎上タイトルをつけてPV数を伸ばす?
 好きな人に膝枕をしてもらう? アロマを炊く?
 毛布にくるまって、ゆったりした音楽をイヤホンで聴く?
 温泉に行く? マッサージを受ける? etc etc etc
 </question>

こうした『意識』の欲求を叶えるために利用されるのが『肉体』だ、
という考え方は、
SF小説ではフィリップ・K・ディックや、神林長平などの作品に見ることができます。
『意識』を『肉体』から分離し、データ化することで、『バーチャルリアリティ』を生きるといった作品なども、割と受け入れやすい発想で、好きなテーマの一つです。。

魂の駆動体

魂の駆動体著者: 神林 長平

出版社:早川書房

発行年:2000

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一方、本書では真逆の疑問がつきつけられます。

つまり、『意識』も『肉体』の一部であり、むしろ『肉体』の必要に応じて進化発達するもの、という考え方です。
生物学的にはこちらの方が正しいような気もしますが、『意識・魂』を主人とする作品の方により多く接しているため、この逆転の発想には驚かされました。

既に不要となった意識

「個性が大事」とは誰が言ったのでしょうか?
人間社会では、「多くの個性」は排撃されます。
特に日本ではそれを強く感じます。
「最大公約数」的な、「均一」で、「枠から外れない」事を、
「人目を引かずに」、「皆と同じように」生きる事を、多数の人は選択します。

「ブーム」が起これば、「流行語」が流行れば、多くの人はオートマティックに桃の天然水を飲み、食べるラー油を食べ、タピオカミルクティーを飲み、
「KY」「ぴえん」「あたおか」「あね」などの個性を廃した言葉が溢れ、
そしてあっという間に忘れ去られます。

かわいさを目指す少女たちは、『量産型』『地雷系』『ギャル系』といった既に用意された枠組みの中でのみ、個性を発揮する事が許され、
結果、数パターンのみの、「どこにでもいる/替えが効く/かわいい少女」が量産されることになります。

<stunned>
迷惑行為で注目を浴びたい、という頭の悪い人々ですら、やる事といえば
スシローの醤油をなめたり、くら寿司で他人の注文を取ったり、
迷惑行為ですら独自性というものがありません。
(別に、独自性を発揮しなくても良い分野ですが)
</stunned>

話題作が出ると皆がそれに飛びつき、「あつまれどうぶつの森」「ポケットモンスター」「Apex」「原神」「スプラトゥーン」といった言葉が乱立します。

<confusion>
「三国志9」(2002年発売)を2023年4月にプレイしており、その前は「ドラクエ将棋」をプレイしていた私は、ゲーマーであるにもかかわらず、誰とも話があいませんw
</confusion>

といった具合に、伊藤計劃氏が描く『生命至上主義』の未来社会の均一さは、既に現代日本においても現象化されているように思います。

こうした均一社会をサバイブする人々にとっては、『意識:感情』というものは邪魔なだけ。
気の合わない他人にニコニコ合わせ、
興味のない流行りものに飛びついて他人と話を合わせ、
自分らしさを出すのではなく、他人に後ろ指を指されない範囲内でみんなと同じメイクをする人々。
鞄につけたキーホルダーだけが、ささやかすぎる『個性』の主張。
しかし、それがこの社会を乗り切るうえで一番有効な処世術だと私は思います。
こうした人々に、『意識:感情』は果たして必要でしょうか?
ただ機械的に、社会が要求する行動を取れば、それが一番円滑に生きられるのです。

ですから、いくら皆がバカらしい行動をとったとしても、合わせる必要がある以上、そこに「ストレス:退屈」といった要素はかえって有害です。

本当は、髪の毛をドレッドヘアにしたいと思っても、それができるのはかなり気合の入った人だけで、大抵の人はボブカットやウルフカットなどで我慢し、にもかかわらず「かわいいと言われたい!」という『欲求』だけが空回りしてネットに自撮り写真をあげて、
心のこもらない「かわいい」といったリプライをもらって、10分で消えるような束の間の幸福感を得るのです。

まぁ、そんな人は大量にいますから、もっと「かわいい」と言われるためには、セクシーな画像をあげたりとエスカレートする人もいますが、それすらも、そんな人はたくさんいるのです。
それに飽き足らないと、迷惑行為で炎上するわけですね。
それもこれも、『目立ちたい』という『意識』があるからなのです。

なので、本書『ハーモニー』における『肉体にとって必要がなくなった、意識を消す』という
『人類補完計画的』なエンディングは、むしろ自然な成り行きでハッピーエンドではないだろうか、とすら思いました。

少なくとも『ハーモニー』の世界にはいじめはなく、慈しみがあり、病は撲滅されています。
娯楽面では相当貧弱な気がしますが(暴力描写がちょっとでもあるとダメっぽいので……ジェイン・オースティンでも読みますか……)、そこを除くと、悪い部分(社会の均質化)は
「なんだ、今の日本と変わらないじゃん」と思ってしまうわけです。
そして、そんな世界で生きるなら「意識」などない方が良いに決まっています。

どうせ、ヒステリックなPTAママのように
「暴力描写など、悪影響を及ぼす娯楽」は厳禁ですし、
健康第一のために「体に良いモノ」を反強制的に食べさせられる
(ラーメン二郎なんてもってのほかw)社会なのですから。

そうして、<Watch Me>の健康アドバイザーの指示や、
巧妙に教育・洗脳された世界で、モブキャラクターとしてこの世界の片隅で暮らし、モブのような子供を生み、育てていけば、人類は勝手に繁栄するのです。

この社会を僕が肯定するかと聞かれると、本音を言えばNoです。
しかし、現在のような中途半端な「均質化社会」は息苦しいだけなので、
それなら「息苦しいと感じる意識」がなければ楽なのにな、といつも思います。

「意識」がない、「自我」がない、「わたし」がない。
それは、強烈な変人として、社会に適合しようと考えたこともなく
その結果孤独に生きる社会不適合者としては、
ある意味で恐怖であり、ある意味で救いでもあるのです。

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</etml>