83点。
秀吉の妻、ねねの眼から見た戦国時代を描いた作品。
秀吉の妻、ねねの眼から見た戦国時代を描いた作品。
信長・秀吉・家康を描いた作品は何作も読んできたけれど、それぞれ違いがあって面白い。
司馬遼太郎の一連の作品(「国盗り物語」、「新史太閤記」、「功名が辻」、「関ケ原」、「覇王の家」、「夏草の賦」)では、秀吉に対して好意的に描かれており、中でも関ヶ原では石田三成に強く肩入れをして描かれているためか、
家康はかなりの卑劣漢になっている。
堺屋太一の「豊臣秀長」も秀吉に対しては好意的だった。
ただし、そんな2人の作品においても「功名が辻」、「豊臣秀長」の終盤では頂点に登りつめ、狂っていく秀吉が描かれている。
一方山田風太郎の「妖説太閤記」は完全にアンチ秀吉。陰惨な秀吉が楽しめる。
他に三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」、天野純希の「破天の剣」、海音寺潮五郎の「伊達政宗」、隆慶一郎の「影武者徳川家康」、新田次郎の「武田信玄」あたりが、信長、秀吉、家康を(部分的にでも)描いた作品として既読であり、
まぁ、これだけ読めば大体の流れも人物像も掴めてきたかな、と思ったが、今回の「王者の妻」ではまた自分にとって新しい発見があった。
まず、本作は秀吉に対してかなり否定的であり、家康に対しては割と好意的であるけれど、
終盤では、老いの焦りから『狂っていく』家康が描かれている。
家康は慎重に慎重に本性を隠し、最晩年にやってきたチャンスをなりふり構わず掴んだキャラクターとして今まで考えていたが、本作では明確に『狂っていく』人物として描かれた。
秀吉もまた狂っていく。
その萌芽は若き日の【木下】藤吉郎の頃からあったけれど、それでもねねは【木下】を愛した。
けれど、ねねはあくまでも【木下】や【羽柴】を愛し、【豊臣】を愛したわけではなかった。
本書では、彼が最後にねねを愛したのは本能寺の変の直後(1582)であり、そこから少しずつ彼は変貌を遂げていく。
北野大茶湯(1587)を最後に、ねねの愛した彼は完全に消えていき、以降は残虐で暗愚な人物と化す。
関ヶ原の合戦を、ねね派VS茶々派の女の戦いとして捉え直した点も個人的に面白かった。
今まで読んだ作品では、福島正則あたりは裏切り者としてかなり厳しく描かれていたが、
ねね派閥(家康)VS茶々派閥(三成)の戦いとして受け止めればなるほど、正則や加藤清正が家康(ねね派閥)に付くのは納得できる。
対照的に、『関ヶ原』で熱く描かれた三成は、ここでは茶々派閥の領袖に過ぎず、何とも魅力がない。
なるほど、豊臣秀頼は秀吉の息子ではあるものの、ねねから見れば憎い茶々と秀吉の子なわけで、
豊臣氏を滅ぼす家康の側に付いてもおかしくはない。
面白かったのは、小早川秀秋の描かれ方だ。優柔不断な愚将のようなイメージが僕の中で定着していたが、本作では考えなしの猪武者として描かれている。
他、浅野長政や木下家定(ねねの兄)とその息子たち(秀秋もそうだった)も魅力的だった。
ねねを主人公にしたため、秀吉が栄達する前の足軽時代から、秀吉の死後、関ヶ原~大阪の陣と広い年代をカバーできた点も本作の魅力。
権勢欲にとり憑かれた秀吉、家康、茶々と、
それに振り回されず自分を見失わなかった、ねね、家定の姿が対照的だった。
晩年のねねは仏門に入り、長生きしたためもあってか、周囲の人間が次々に亡くなっていく。
どこか人間の生の儚さと、静穏なねねの心境を感じる余韻の残る結末だった。
司馬遼太郎の一連の作品(「国盗り物語」、「新史太閤記」、「功名が辻」、「関ケ原」、「覇王の家」、「夏草の賦」)では、秀吉に対して好意的に描かれており、中でも関ヶ原では石田三成に強く肩入れをして描かれているためか、
家康はかなりの卑劣漢になっている。
堺屋太一の「豊臣秀長」も秀吉に対しては好意的だった。
ただし、そんな2人の作品においても「功名が辻」、「豊臣秀長」の終盤では頂点に登りつめ、狂っていく秀吉が描かれている。
一方山田風太郎の「妖説太閤記」は完全にアンチ秀吉。陰惨な秀吉が楽しめる。
他に三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」、天野純希の「破天の剣」、海音寺潮五郎の「伊達政宗」、隆慶一郎の「影武者徳川家康」、新田次郎の「武田信玄」あたりが、信長、秀吉、家康を(部分的にでも)描いた作品として既読であり、
まぁ、これだけ読めば大体の流れも人物像も掴めてきたかな、と思ったが、今回の「王者の妻」ではまた自分にとって新しい発見があった。
まず、本作は秀吉に対してかなり否定的であり、家康に対しては割と好意的であるけれど、
終盤では、老いの焦りから『狂っていく』家康が描かれている。
家康は慎重に慎重に本性を隠し、最晩年にやってきたチャンスをなりふり構わず掴んだキャラクターとして今まで考えていたが、本作では明確に『狂っていく』人物として描かれた。
秀吉もまた狂っていく。
その萌芽は若き日の【木下】藤吉郎の頃からあったけれど、それでもねねは【木下】を愛した。
けれど、ねねはあくまでも【木下】や【羽柴】を愛し、【豊臣】を愛したわけではなかった。
本書では、彼が最後にねねを愛したのは本能寺の変の直後(1582)であり、そこから少しずつ彼は変貌を遂げていく。
北野大茶湯(1587)を最後に、ねねの愛した彼は完全に消えていき、以降は残虐で暗愚な人物と化す。
関ヶ原の合戦を、ねね派VS茶々派の女の戦いとして捉え直した点も個人的に面白かった。
今まで読んだ作品では、福島正則あたりは裏切り者としてかなり厳しく描かれていたが、
ねね派閥(家康)VS茶々派閥(三成)の戦いとして受け止めればなるほど、正則や加藤清正が家康(ねね派閥)に付くのは納得できる。
対照的に、『関ヶ原』で熱く描かれた三成は、ここでは茶々派閥の領袖に過ぎず、何とも魅力がない。
なるほど、豊臣秀頼は秀吉の息子ではあるものの、ねねから見れば憎い茶々と秀吉の子なわけで、
豊臣氏を滅ぼす家康の側に付いてもおかしくはない。
面白かったのは、小早川秀秋の描かれ方だ。優柔不断な愚将のようなイメージが僕の中で定着していたが、本作では考えなしの猪武者として描かれている。
他、浅野長政や木下家定(ねねの兄)とその息子たち(秀秋もそうだった)も魅力的だった。
ねねを主人公にしたため、秀吉が栄達する前の足軽時代から、秀吉の死後、関ヶ原~大阪の陣と広い年代をカバーできた点も本作の魅力。
権勢欲にとり憑かれた秀吉、家康、茶々と、
それに振り回されず自分を見失わなかった、ねね、家定の姿が対照的だった。
晩年のねねは仏門に入り、長生きしたためもあってか、周囲の人間が次々に亡くなっていく。
どこか人間の生の儚さと、静穏なねねの心境を感じる余韻の残る結末だった。